World IA Day 2015で東京のローカルコーディネーターを務めた山本郁也さんをゲストに迎えました。

In This Episode

  • World IA Day 2015について
  • 分かりやすさとセレンディピティ
  • 情報が時を超えるための条件
  • 古典主義とロマン主義の間で揺れ動くモード
  • IAは「アンダースタンディング・ビジネス」だけでいいのか
  • 時を超える「弱さ」の可能性
  • IAについて言論する意味

Transcript

以下はポッドキャストの音声から書き起こしたテキストです。

World IA Day 2015について

[石橋] 本日のIA Podcastはゲストに昨日World IA Day 2015を終えたばかりのローカルコーディネーター、山本さんをお迎えしました。よろしくお願いします。

[山本] よろしくお願いします。

[石橋] さて、そもそもこれは、どれくらい前から準備を始めたんですか?

[山本] 準備はかなり前で、半年以上前ではあるんですよ。夏ぐらいから話自体は軽く出ていて、「やりませんか?」みたいな話とか、「やりましょうか」という話になって。秋ぐらいになって本腰を入れて考え始めた感じですね。そろそろ考えないとなと。夏の終わりぐらいから、少しずつ始まっていたという感じですね。ちょこちょこ話は進めつつ、10月・11月くらいに、「もうちゃんと動き出そうか」みたいな感じで。

[石橋] 3〜4ヶ月前みたいな。

[山本] そうですね、「もうちゃんと動き出さないとね」みたいな感じで。その前にある程度「今回どういう人を呼ぼうか」みたいなのは内々ではリストアップしていて、そのときは「作家を呼ぼうか」とか、それこそ「どこかの哲学者を呼んでもいいんじゃないか」とか、そういう話もけっこうポコポコ出てたんですよ。もとから「今回はブロードキャストメインでやりましょう」ということだけは決まっていましたね。

[石橋] それは前回の事を踏まえて?

[山本] そうですね、前回は大雪で中止になっちゃったということもあって。

[石橋] 2014年の2月ですね。

[山本] そうですね。だから2回連続でそれは、ちょっとないな、と。だから、万が一ということも考えて、最悪、登壇者が来れなかったとしても、なんとか企画者だけは行ってやれたらいいなと、そういうことは最初から考えてましたね。その時点で、現地に来るのはすごく少人数になるので、わりと「プラクティカルな話題とかじゃなくて、ハイブロウなほうに振り切ってもいいんじゃないか」みたいには思ってましたけどね。まあ、ぼくの中で、勝手に。せっかく僕がやるんだから、少しは「僕っぽさ」が出ないとつまらないかなと思ってて。僕が元々、例えば分かりやすい「明日から使える技術」みたいな話はあんまり好きじゃないんですよね。他にいっぱいそういうことをやってる人もいるし、それはそっちでやってもらって、ここはこういうWorld IA Dayという大きなイベントなので、もっとそうじゃない、違うことをやりたいなって考えましたけどね。

[石橋] 山本さんのなかでWorld IA Dayというものは、どういう位置付け、どういうイベントという意味合いなんですか?

[山本] IA SummitとかEuro IAとかIA関連のイベントって結構ありますけど、僕の中ではWorld IA Dayのほうが感覚としては大事なんですよ。というのは、やっぱり各国がホストになって、コーディネーターがいて、同時に開催するわけですよね。世界中を巻き込んだ大きなイベントなわけですよ。それこそ各国の「インフォメーション・アーキテクト力(りょく)」が試されるというか、例えば、ワーマンがTEDというイベントを情報建築家としてやっているわけですよね。だからローカルコーディネーターというのは、そういう立場じゃないといけないと思っているわけですよ。

[石橋] イベントプロデューサーの役割を。

[山本] IAっていう名前もついているわけだし、最初から「そこからは逃れられない」と思ってたんですよね。

[石橋] 最初から敷居が高いというか、期待値が高いというか。

[山本] もしかしたら、来る人はそんな風に考えてないかもしれないですけど、少なくともぼくは考えてましたよね。

[石橋] それは「他の人が」っていうよりも、自分の中で「このラインを超えなきゃ」というのがあるっていうことですかね。

[山本] ありましたね、それは。

分かりやすさとセレンディピティ

[山本] かといって僕は、これは情報アーキテクチャの専門家とかから「ん、そんなこと言うの?」とか思われるかもしれませんけど、例えばワーマン的な「インストラクション」、いわゆる強いインストラクションみたいなのは、そんなに好きじゃないんですよ。

[石橋] 僕もそうですね。

[山本] そうですよね(笑)あんまり好きじゃなくて、もうちょっと「意図しない出来事」とか、「コンテクストを外れる」とか、「例外的」みたいなのが好きなんですよね。僕自身がよく、学ぶとか、気付くとか、ハッとさせられるときとかって、だいたいコンテクストから外れているときだったりするから、そういうのを狙ってやりたいなっていうのもちょっとあったんですよね。

[石橋] これは言い換えると「インストラクションが強い」っていうことは、強く指示をしているようなメッセージの出し方だから、つまり発する側がそもそも誤解されないように伝えている。解釈の余地が狭くて、あまり幅がなくて、ほぼ一意に解釈が定まるというか。それはつまりビジネスにおいてはすごく効率的なメッセージの伝え方になるんだけども。それはまさにそのような言い方で、ワーマンは『インストラクション・アングザイエティ』(そのあと『インフォメーション・アングザイエティ2』になった本)で、「インストラクション」を軸に「どうやったら職場のコミュニケーションがうまくいくか」みたいな話をした。それはやっぱり彼が基本的に「インストラクション」の人で、情報を正しく伝えるとか、誤解のないように伝えるとか、あるいはそういうリテラシーを教育で身につけさせるとか、そういうことをずっと考えてた人ですよね。それが「強いインストラクション」の世界。それに対して、逆にインストラクションが弱いっていうことは、伝えようとするメッセージ自体に強制力が弱い、受け手に委ねられているっていうことですよね。それはネガティブな言い方をすると、「ちょっと聴いただけでは何を言いたいのかわからない」とか「結局何が言いたいの」って思わせるかもしれないっていうことですよね。

[山本] それをしたいんですよね、むしろ(笑) 僕自身がイベントとかでモヤモヤして帰るのが好きだったりするんですよね。「なんだったんだろうな」とか「これは何なんだろう」とか、それはそのとき全然分からなかったとして、でも2日くらい家でモヤモヤ「あれ何だったんだろうな結局」って考えていると、たまに「もしかして!?」みたいなときがあるじゃないですか。その感覚がけっこう好きなんですよね。トークセッションとかでも、ぼくはゲンロンカフェとかよく行きますけど、例えば東浩紀さんと他の方とのトークセッションで、「噛み合ってないな」と思っちゃうときもあるわけですよ。「この噛み合ってないのはなんでだろうな?」みたいな。むしろ「本当に噛み合ってないのか?」とかって一生懸命考えていると、一番最初は噛み合ってないと思ってたけど、「いや、実はこれってこういうことなんだろうな」みたいに気付くときがあるわけですよね。そういうのが僕自身はけっこう好きで、そういうのをせっかくだからやりたかったというのは、裏の意図というか、ありましたよね。

[石橋] 結構前からそういったプレゼンテーションをされてたりとか、スライドで拝見してましたけど。Design dot BEENOSとかで、そういう話をされてましたよね。

[山本] あれも「来るお客さんには歩み寄らない」っていうのを心がけてるんですよね。基本的には「役に立つ話」をしないっていう。

[石橋] 「歩み寄らないこと」を心がけている(笑)

[山本] 「質疑応答もしない」みたいな。

[石橋] あ、そうですか! それはすごいですね。

[山本] 基本的にしないんですよ。

[石橋] それは面白いですね。

[山本] 「あくまでもこっちが一方的にしゃべる、来る人が聴いている、終わり」っていう場で。ある種、暴力的だと思うんですけど。それは百万人とかに伝わる話なわけがないんですよね。でも100人とか10人とか「すごく面白かった」という人がいて。実際Design dotっていうイベントも、かならず数人「めちゃめちゃ良かった」って言ってくれる人がいるんですよね。「あのやり方は何なんですか?」とか、「なんでこんなイベントするんですか?」みたいなこと言われますけど、ほんと一部「ほんとに楽しかった」と言ってくれる人がいて、それでいいと思っているというか。

[石橋] なるほど。強いインストラクションというのは、ある意味では、すごくユニバーサルなメッセージなんですよね。例えばワーマンの仕事は、都市のガイドマップだったり、イエローページ(電話帳)であったりとか、そういう人を迷わせないものです。その場合の「人」っていうのも、極めて「万人」っていうのを想定した形で、ユニバーサルに情報へのアクセス(アクセシビリティ)を高める、そんな発想をしてるんだけど、ワーマンっていう人は。山本さんの場合はむしろユニバーサルの対極の、すごくユニークな、たまたま山本さんが発した内容の何かごく一部の要素と、受け手の何かのセンスに触れた時に、何かが伝わるみたいな、極めて脆い危ういコミュニケーション。それはユニバーサルじゃないから、決して本にも書かれないし、他でもあんまり話されてなくて、「そこでの一期一会の出会いで生成する意味」みたいなものが出てくる。

[山本] たま〜にハイパーリンクする人がいるみたいな。

[石橋] ハイパーリンクしちゃうんですね(笑)

[山本] いつも思ってるのは、コンテクストっていう言葉があるじゃないですか。情報アーキテクチャでも、ものすごくよく使うわけですけど、それにぼくはちょっと疑問を持っているんですよね、もともと。「コンテクストはほんとに大事なのか?」みたいな。そこを疑う人がいないなと思っていて。正義みたいに語られるじゃないですか、「コンテクストを無視しちゃいけない」とか。「ほんとに?」って思うんですよ。そこに頼りすぎているっていう言い方もできると思いますし。

[石橋] ワーマンがコミュニケーションをモデリングした際に出てくるのが、「コンテクストの海」みたいなのがあって、情報の出し手と、受け手があって、その環境の中でコミュニケーションが小包のように送られて、届いて、理解されるっていうモデルですね。だから「コミュニケーションでメッセージを出す側っていうのは、相手がそれを受け取り解釈するコンテクストをよく理解してメッセージを出さないといけない」っていう。ワーマンっていう人は、パフォーマティブに、人を何か自分の意図通りに動かすとか、あるいは本人が望む状態にむけて自分が助けるとか、そういうすごくパフォーマティブに人を動かす、その言葉によって何かを実現しようとする言葉を、すごく極めた人だと思うんですよね。それに対して山本さんのスタンスというのは、逆を行ってるというか。

Sea of context

[山本] いや、ワーマンはすごく好きなんですよ。ほんとに情報アーキテクチャの領域では、むしろ、めちゃめちゃ好きですよね。でもべつにそこは真似る必要がないと思っている。まあこれは仕事では別ですけど、もちろん。

[石橋] さっきの「コンテクストが大事だろうか?」っていう話は、つまり、コンテクストを剥ぎとって、コンテクストをあまり意識せず、コンテクストをときに無視してメッセージを届けるっていうことで、それでしかできないことがあるっていう考え方ですよね。

[山本] そうですね、はい、だからコンテクストが強すぎるところにセレンディピティは生まれないと思ってるんですよ、はっきり言って。

[石橋] 要はこう、「何かを具体的に探している人に、それを与える」みたいなことですもんね。

[山本] そうじゃなくて、「自分ですら忘れかけてた何かがぼんやり見えてハイパーリンクする」が大事だと思ってるんですよ。

[石橋] つまり、コンテクストにあまり癒着しないで、コンテクストから剥ぎ取られたような言葉を届けるっていうことで、受け取る側もビクッとするっていうか、「物陰でなんか動いた!ゾゾゾッ!」みたいな感じになるわけですよね。

[山本] それがやりたいんですよ。

[石橋] 一瞬不気味なんですよね。「何の話をしてるんだろう」とか、「どういう前提からこんな話をしてるんだろう」って聞き手もコンテクストを探りたくなるんだけど、コンテクストの説明を拒否したままコンテンツだけを届けちゃうっていうことをやるわけですよね。これはランダムにたまたまそれが、その人の何かにヒットして、つまり山本さんもまったく意図せずに何かの問いが生まれたり、答えが見つかったりするっていうことですよね。

[山本] その可能性があるんだから、やってもいいでしょうと思ってる、ってかんじですよね。

[石橋] それを「暴力的」っておっしゃるのは確かにそうで、TPOを考えてないから「暴力的」なんですよね。

[山本] ほんとハラスメント的かもしれないですよ。

[石橋] そうですよね、座って30分とか1時間とか、よくわかんない話を聴かせるっていうね。ある意味、身体を拘束してるわけだから、これって牢屋に入れてるのとあんまり変わらないからね。そりゃ暴力っちゃ暴力ですよね。

[山本] だからそれが暴力だっていうのは分かってはいるんですよね。

[石橋] 自由刑っていうことですからね、牢屋に入れるっていうのは。「監獄の誕生」ですよ(笑)

[山本] フーコー的な(笑)

[石橋] そうそう(笑)

[山本] まあでもこれはやっぱ自分自身がそうだったと思うんですよね。いまでも思い出に残っている出来事とか、「あれで人生変わったな」みたいな出来事って、ぜんぜん事前に準備して取りに行ったものとかじゃなくて、あるときに「ああ、こんなのあんの?」とか思った瞬間であることが多いんですよね。だからそういうのを、こう実践できないかっていうのは、ずっと考えてますね。だからイベントで登壇・講演するときも、「プレゼン資料はほとんど用意しない」とかっていうのは、よくするんですよ。用意しても、ぜんぜん中身を書かないとか。ぼくのSlideShareを見てもらえるとわかるんですけど、SlideShareだけ見ても多分なんもわかんないんですよ。わざとスライドだけ見てもなんもわからないようにしてるんです。

[石橋] 暗号みたいな。

[山本] もう暗号みたいな。「この前後まったくつながってないけど?」みたいな。「つなげてないからです」みたいな(笑)

[石橋] じゃあ、あれを聴いてない人が、スライドだけ流れてきたのを見ても、何にもわかんない(笑)

[山本] 何にもわかんないですね(笑)

[石橋] いいですね。

[山本] こんなことばっかりやってて、嫌われる気もしますけど。

[石橋] 弱いインストラクション、受け手に解釈を委ねるメッセージっていうものが、同時に暴力的でもあると。だから嫌われやすいっていうのは、たしかにありますよね。分かりやすい話をする人のほうが好かれやすいっていうことですよね。

[山本] そうですね。ただ、それをやる人はいっぱいいるので。

[石橋] たしかに。つい最近ぼくがネットで見かけた記事が、松岡正剛さんはなんで答えを教えてくれないんだろうっていうもので、海猫沢めろんさんっていう作家の方がインタビューされてて、あれはすごく面白かったですね。たしかに、その「答えを言わない」っていう、だからこそというか、松岡正剛さんはカリスマ的に読者がいるわけだし、そういうのを求めている人も確実にいるわけですよね。

[山本] 僕自信も松岡正剛さんは好きですしね。だから最初に岡田先生っていう人を呼んだんですけど、あの人に「弱いIA」っていうテーマで話してもらって、ぼくはあの人の『弱いロボット』とかもすごく好きなので、すごく嬉しかったんですけど、あの人も、「弱い」なんていうキーワードを業界に持ち込む人っていないわけですよね、基本的には、「どうにかして強くしていこう」っていう方じゃないですか。インストラクションを強くするとか、関係を強くするとか。そこに「弱い」っていうキーワードを持ち込むことで、「あ、そんな発想もあるんだ」っていう気付きになるんじゃないかと思ったんですよね。それこそコンテクストに頼らないデザインをしている人だと思ったんで。

[石橋] それまでの強い方向の技術開発競争というものに対して、ある種のアンチテーゼとして、違う価値評価軸を持ち込んだって言うことですよね。

[山本] そうですね。で、江渡さんなんかは、もう最初から「呼びたいね」って言ってたんですけど、あの人もそもそもインフォメーション・アーキテクトだと思ってるんですよ。集合知とか、ニコニコ学会βとか、いまは運動会みたいなこととかやっていて、そういう場を作っているわけですよね。だからもうワーマン的なインフォメーション・アーキテクトかなと思っていて、だからぜひ呼びたいと思ったんですよね。で、もう一人はWIREDの若林さん、あの人はまた全然毛色が違うなっていうのはわかっていて、すごい文系の人ですし、もともと文学部だっておっしゃってましたし、学生の時もソシュールとかロラン・バルトとかをやってた人なんですよね。そういう文系の発想みたいなのも、ぼくはもともと文系の人間なので、ちゃんと入れたいと思ったんですよ。それこそゲンロンカフェって「文理融合」って言うじゃないですか。ああいうのをできないかなと思ったんですよね。だから文系の人は必要だったんですよね。

[石橋] 「文系の人がいなきゃいけない」って話は、いま聞けてよかったです。ここで聞かなきゃわかんない話だったから、なるほどなあと思って。

[山本] さっきから言ってますけど、ぼくは丁寧に意図を説明しないですからね(笑)

[石橋] これは貴重な「舞台裏のドキュメント」みたいな感じで(笑)

[山本] 僕の中ではちゃんと意図があったんですよね。でも誰にも伝わらないとは思ってましたね。他の運営メンバーとかにも僕の意図は伝わらないし、伝えても「ふーん」だろうな、みたいな。

[石橋] そういう説明がしにくいものっていうのは、何かしら形にして見せてしまうのが早いっていうね、ある種スカンクワークス的っていうか、説明するくらいなら形にする、みたいな。

[山本] だからまあ僕のやりたいことは形になったと思ってるんですよ。その証拠に、終わった後に「ものすごい面白かった」と言ってくれる人もけっこういたんですよ。「ほんとに面白かった」と。「ああいう話題のまま最後まで突っ切ってくれてよかった」と言ってくれる人もいて。もちろん「何がなんだか分からなかった」という人もいて。でも、これってぼくがいつもやっているDesign dotというイベントとかセミナーとか講演とかと一緒なんですよ。良くも悪くも。

[石橋] そういう意味では「自分らしいイベント」になったっていうことですよね。

[山本] なったと思ってますね。いいか悪いかは分かんないです、正直。でも「らしさ」は出たのかなと思ってますね。

[石橋] 最初に言ってた「自分がやるからには、自分らしいところを」っていうのは、すごい出てたっていうことだと思いますね。そういう意味では、デザインとしては、ちゃんと意図が実現されたっていうことになりますかね。

[山本] そうですね。そうだと思ってます。まあ、でも、もともとやっぱり「なんかよく分かんない」とか言われるだろうなとは、最初から思ってたんですよね。それはぼくがよくやっているイベントでもよく言われるからですけどね。講演もそうですし。「何の話をしてたんですか?」みたいに言われることもありますし。

[石橋] そういう意図通りに、いわゆる「人々が『IAのイベント』と言われて想像するもの」に対して、だいぶ変化球を投げたわけじゃないですか。

[山本] そうですね、それをやりたかったですね。

[石橋] 僕自身はあれに参加して、「むむ、これはなんか分かりやすい話にはならんぞ」と、わりと早い時点で思って、そこから何をしたかというと、講師の話を聴きながら、半分聞き流しながら、延々とノートをとってましたね。それも講師が言ってたことを書いてたんじゃなくて、なんていうか、ラジオを聴きながらアイデアをノートに書いてるような感じ。半分入ってるんだけど、半分はちゃんと聴いてなくて、残り半分の頭は、自分の考えたいことを考えてる、みたいな。なんか考えてると、時々また新しいキーワードが飛んでくるので、それによってまたもう一歩先に考えが進む、みたいな感じでやってましたよね。まさにこう、インストラクションの具体性が極めて弱い感じのメッセージが… メッセージがぼくに宛てられてないから、なんていうか、「隣を小川が流れてて、たまに喉が乾いたらコップですくって飲む」みたいな感じ。なんか流れてるのは分かってるんだけど、全部は受け止めてなくて、「お、なんかいいの来た」みたいな感じでサッと取る、みたいな感じでしたよ。流しそうめんみたいな感じで。「あ、そうめん来た」みたいな感じで。

[山本] それはありがたいですよ。

[石橋] そういう風にデザインされたようにぼくも行動してたのかなって、いまの話を聴きながら思いましたね。そういう感じだから、わりと楽しめましたね。

[山本] ありがとうございます。「ほんとに楽しかった」って言ってくれる人がけっこういたんですよ。ほんとに社交辞令っぽくないトーンだったんですよね。そういう人が一定数いるって分かったのが、ぼくにとってはものすごい収穫だったっていうか、「ああ、やっぱりこれって刺さる人いるよね」って再確認できたというか。だから多分ぼくが今後も何かやったらこうなるんだろうなあと思ってますけど。

誰かに届いて欲しいという希望を載せた「郵便」

[石橋] じゃあ「これ言っときたい」みたいなこと、ちょっとよかったら言ってください。

[山本] せっかくだから言うと、今年はあれなわけですよ、ジャック・デリダが没後10年。

[石橋] デリダイヤーですか。

[山本] デリダイヤーなんですよね。ぼくはもともとジャック・デリダの考え方というのは、非常に好きというか、親近感をいつも感じていて、まさにぼくがやりたいことって、仕事でもイベントでもそうなんですけど、デリダのいう郵便なんですよね。郵便空間というか。「届くかもしれない」「届かないかもしれない」みたいな話ですよね。結局いま考えているのは、デリダにはグラマトロジーってあるじゃないですか、エクリチュールでもパロールでもない、みたいな話ですよね。でもその何か元々のところに、別に神秘主義的に神秘性を持つわけでもなく、何か見えない痕跡みたいなものが残ってるという話だと思ってて。「グラマトロジーみたいなことをやれないか」ってのはいつも思ってるんですよね。だから、音でも言語でもないってなると、例えば場所の身体性だったりとか、そういうものなのかなとも思っていて。なので、イベントとかそういう場で、あえてコンテクストを剥ぎとって、コンテンツをぶつけることで、そこに何か「痕跡」が残る、みたいなことが出来ないかなってのは、いつも考えてはいますけどね。

ジャック・デリダの写真

[石橋] うんうん、なるほど。

[山本] この前イベントでWIREDの若林さんが言ってましたけど、「基本的にコンテンツなんて誤読が前提だ」って言ってたじゃないですか。まさにあれは嬉しかった一言というか、「そうだよね」と思ったというか。僕自身も「想定通りに解釈される」なんて期待するほうが間違ってると思うので、それだったら別に「こう理解してください」「分かってください」なんて歩み寄る必要なんて無いんじゃないかと思うんですよ。これって別に諦めてるとかじゃなくて、むしろ相手側に賭けてるつもりなんですよね、個人的にはですけどね、聞き手を信じるというか、賭けて。デリダの言う「郵便」というキーワードで大事だなと思ってるのは、もともと「届けたい」という意志が、実はある言葉じゃないですか、「郵便」って。届かないかもしれないけど、何か希望的なものは乗っかってるんですよね、実は。だから、諦めて「どうやって理解されるか分からないから、ただぶつけるよ」ってだけじゃなくて、実は「なんか受け取って欲しい」とは思ってるんですよ。

[石橋] 具体的に「この相手に届けたい」っていう相手を想定して届けようとして、届かなかったら、それはがっかりするんだけど、最初からもうちょっと広がりを持たせて、なんとなく投げてるから、なんとなく「誰かにあたるかもしれない」みたいなところに希望を持って、投げるんですよね。「誰かに当たれ」みたいな感じで投げるんですよね。それはひょっとしたら紙の本なら本屋や図書館だろうし、デジタルなテキストだったらウェブのどこかにアーカイブされて、いつか誰かが検索とかでそれを見つけて、みたいな形で、ぜんぜん自分と何の関係もない人とかに届いてしまうかもしれない。そこにある意味では「希望」みたいなのがあるっていうことですよね。

[山本] そうです、そうです。

情報が時を超えるための条件

[石橋] それって、あれなのかな、山本さんってアーカイブにも関心が強いじゃないですか。アーカイブっていうのは、長い期間アーカイブすればするほど、それだけ確率論的に誰かに届く確率は上がるわけですよね。ポアソン分布っていうんですか、「時間あたりの確率」があったときに、時間がどんどん伸びていけば、「一回当たる確率」っていうのが高くなる、みたいな。

[山本] ですです。

[石橋] だからアーカイブしたい、みたいな。

[山本] そうですね。アーカイブには興味ありますね。興味あるというか、なにか残すことには結構関心はありますね。

[石橋] この前10万年とかの話してましたもんね、スクーとか。

[山本] あれもスクーで話していい話だったのかどうかっていうのは ものすごい疑問ですけども(笑) あれしか出来ないんですよね。というか、ああいう話をしてるのが楽しいから、しちゃうんですよ。

[石橋] それはつまり、言い換えると、山本さんが想定している読者なり聴衆なりっていう「受け手」は、「いま発してそれがすぐ誰かに届く」っていう受け手だけを想定してるんじゃなくて、5年後、10年後、あるいはもっと数十年、100年とか、10万年とか、そういった未来の人類全部を「受け手」とみなしてるようなところがあるのかなっていう気がしましたね。

[山本] そうですね。それこそ宛名も別にない、っていうことかもしれないですね。「10万年」って大げさな数字だと思ってなくて。これもデリダのメタファーになりますけど、「痕跡」とかは残ると思ってるんですよ。むしろ、残るものって「痕跡」だろうと。なので、もともと「来年には語られてない話」よりは、「10年後も思い出してもらえる話」のほうが、寿命の長いコンテンツのほうが好きなので、まあそれは結構考えてる人もいると思うんですけど。

[石橋] 「寿命が長い」っていうのは、「トレンドに乗り続けてる」とかそういう意味じゃなくて、コンテクストに依存しないがゆえに、時代を超えて、人間がいまのような人間である限りは何かしら共感できるというか… 「古典文学が持っている要素っていうのを、何かしら自分のメッセージに持たせたい」みたいに聴こえるんですよ。つまり、ぼくらがいま例えばプラトンを読んだりとか、平安文学を読んだりとかしても、何かしらすごく親近感を持って人間像が立ち現れてくることってあるわけですよね。ぼくなんかプラトンの『饗宴』っていうのを読んだときに、酔っぱらいが寝そべってあれこれ談義してるっていうのが、「なんかもうその辺にいくらでもいるよね」っていう、そんな感じがしたわけですよ。しかも、あれに出てくる酒ってワインなんだけど、けっこう水で割って飲んでるらしいので、すごい薄い酒を一日中延々と飲みながら、ほろ酔いでずっと喋ってるっていうことなんですよね。「それはまあ楽しいだろうな」とか思うわけですよ、普通に(笑) それってなんか、いまと文明の水準とか、技術的な進歩度とか、ぜんぜん違うんだけれども、我々人間が人間である以上は共通点を見出すことができる。つまり、けっこう普遍性が高いメッセージになっていて、だから当時のポリスとか政治とか、それこそ奴隷がいてとか、専制であったりとか、そういうの全然関係ないというか。そのときのコンテクストを剥ぎとっても、なんか残るものがあって、それがいまの我々に届いているわけですよね。それはひょっとしたら、その当時の受け止め方、当時のコンテクストでの理解とぜんぜん違う読み方をしているのかもしれないけど、もうそれも関係ないわけですよね。「届いたことが重要」みたいな。そういう意味では、山本さんの話っていうのは、「古典になりたい」っていう聴こえ方をするなあと思って。

プラトン

[山本] たしかに。なんか昔からそういうキーワードに惹かれるというか、弱いんですよね。例えばプルースト。ぼくはワーマン読んでからプルーストに行ったんですよ。なんでかというと、ワーマンが何かの本の冒頭で「自分が情報アーキテクチャを語る上では、プルーストの『失われた時を求めて』と、誰だかの『白昼夢』は外せない」みたいなことを書いていて。「リチャード・ソール・ワーマンがプルーストを出すっていうことは、情報アーキテクチャはプルーストの中にあるんだろう」って思っちゃったんですよね、最初から。「きっとそこにあるんでしょう、だってワーマンが言うんだから」と。それでプルーストの『失われた時を求めて』を文庫で全13巻買って、全部はさすがに読んでないんですけど、さらっと読んで。プルーストが大事にしている言葉っていうのが「祖国」だったり「調子」、トーンですよね。そういうキーワードだっていうのが分かって。そのトーンや祖国みたいなキーワードっていうのも、ちょっと違うんですけど、アーカイブみたいなものとか、デリダの言う「痕跡」みたいなものとか、まあつながるんですよね。「何か残る」みたいな、それが気持ちいい気持ち悪いは関係なく、「何か一貫して残ってしまう」みたいな。まあ祖国とか、なんでしょうね、パトリオットみたいな話じゃなくて、自分たちには祖国みたいなものがあって…

[石橋] あー、なるほど、なんか分かってきた。つまり、頭で何かいろいろ考えている、その頭っていうものが乗っかっている、あるいはそれを動かしている「プラットフォーム」とか「OS」としての物理的な身体みたいなものから、どうやっても離れられないから、そこをちゃんと考えようとか、そういう話?

[山本] そういう話かもしれないです。

[石橋] それがさっきのプラトンの話とかでも、「OSとしての身体」っていうのは、2000年くらいじゃまったく変わらなくて、何十万年単位でしか変わらないわけですよね。それが「情報」とか「意味の普遍性」っていうのを支える「OS」っていうことなのかなって。いまの生活様式とか、技術とか、社会とかって、全部「アプリケーション」みたいな感じで、それはいろいろ変わっていくということなのかなって思いましたけど。だから「OSのバージョン」って数百年とか千年単位でしか上がらなくて、「アプリケーション」は20〜30年、一世代で変わる、みたいなことかもしれない。

[山本] そのOSを「祖国」みたいなものとみなしたときに、そこにちょっと手を入れるにはどうしたらいいんだろう、みたいなことだと思うんですよね、ぼくがやりたいことって。

[石橋] それは「情報」とか「IT」だけの話では、ちょっと終わらない話なんでしょうね。例えば「精神性」と「身体操作」の関係が深いっていうと、禅とかがそうだと思うんですけど。あるいはインドのアーユルベーダとか、そういう方向性なんですかね、例えば。

[山本] そういうのも一つあるかもしれないですよね。

[石橋] あとスローライフとかデトックスとか断捨離とか、現代風に言うとそういうのも関係あるのかなっていう。

[山本] かといって「デジタルデトックス」とか「脱成長」「ダウンシフト」みたいなのはそんなに興味はなくて、あくまでもぼくは「人はもう進化し続けるしかない」とも思っているので、その中でって話だと思うんですよ。ダウンシフト的に「身体を取り戻そう」みたいな発想って、なんか人間のやってきたことと逆行していると思うんですよね。結局もともと前に進むしか能がないわけなので、基本的には。

古典主義とロマン主義の間で揺れ動くモード

[石橋] その話って… 建築史では建築様式って秩序カオスの間で20〜30年くらいの間隔で近代ずっと揺れ動いてると思うんですよ。20世紀に入る辺りで植物的・曲線的なものが出てきたら、その後ギリシャのような古典に回帰し、かと思ったらまた曲線的で無秩序なのが出てきて、またその後で幾何学的・合理的なものに行って、そういう「行ったり来たり」みたいな。ポストモダン建築っていうのはカオスの方だと思うんですけど。なんか行ったり来たりするんですよね。そういうのと似ているというか。その軸で見たときには、古典主義=「幾何学的・合理的・帰納的」なんですよね。それに対するのが、ほぼロマン主義と言っていいと思うんですけども。古典主義は後ろを向いて、懐古主義的で、機能主義的・合理主義的で、ある意味、「近代主義的」なんですよ。だから、「近代の古典主義」っていうのは、すごい「近代主義」なんですよ。それに対してロマン主義っていうのは、「まだ見ぬもの」とか、ロマンを追い求めるとか、そこにカオスとか、「まだ見たことがないからよく分からない未知」とか、不可知とか、神秘主義とか、そっちに行くわけですよね。ポストモダンとかって、神秘主義が半分入ってるわけじゃないですか。ポストモダン建築にもそういうのが入ってる。20世紀の建築史って、コルビュジェなんてのはピュリスムとか純粋主義みたいな幾何学的形状とかだし、インターナショナル・スタイルとかもそうだし、すごい合理的で機能主義的でっていう時代があって。それにまたカウンターが来て、「行ったり来たり」みたいな運動があったときに、その話に乗っかってる、その延長にある話なのかなって思って。だから、なんて言うのかな、山本さんの話っていうのは、ロマン主義的な話なのかなって思って。で、ぼくは最近自分のサイトをスタディとして、実験として、リニューアルしてみて、その際にいろんなことを考えて、いろんな手法を試して、その考えをまとめて文章にしたんですけど。それをやりながら思ったことなんだけど、すごくルネサンス的というかね、「ティム・バーナーズ・リーがウェブを作ったときに考えていたことを大事にしよう」みたいな文章とか、そういう思想と手法とかを、ぼくは採用していったんですけど、それはすごく「古典主義的」なんだなあと自分で思って。そういうところが、ちょっと違うのかもなと思って。山本さんとの考え方が、ひょっとしたら。もちろん表面的にはアクセシビリティとかさ、ああいうの大事にしようとかっていう価値観は共有してると思うんですけど、「根っこ」のところがなんか違う気もするっていうか。「その手段を通じてどこへ向かおうとしてるのか」っていうときに、ぼくはたぶん結構「合理的・機能的・幾何学的」とか、「整然としたコスモスみたいなものに向けて情報を組織する」とか、わりとそういう方向で考えてる気がしますね。それで言うと、山本さんからはカオスとか、神秘とか、ロマンとかそういうものをすごく感じる。今日の話だけでもそうだし、これまでのつきあいのなかでも、そういう感じはすごくしますね。「10万年」っていう時間設定もすごいロマンティックだし(笑)

[山本] そうですね(笑)

[石橋] それこそ「10万年後の人に届くかもしれない」といって、いま何かメッセージを発するって、「まだ会ったことのない人にラブレターを書いてボトルメールに入れて」みたいなロマンティックな行為ですよね(笑) ものすごいロマンティックですよね(笑) 乙女なんじゃないかって(笑)

[山本] 乙女だったのかもしれないっすね(笑) そうですね、そうかもしれないですね。

[石橋] 18世紀の貴族のお嬢さんがそんな手紙を書くような話とか、ありそうじゃないですか。「まだ見ぬあなたへ」みたいな(笑) そんな感じじゃない? 完璧にそれですよ。いま、すごいことが判明しましたね。

[山本] 乙女だったと(笑)

[石橋] 一見、すごい怖い難しいこと言ってる感じだけど、実は乙女だったという(笑)

[山本] 読解されましたね(笑)

[石橋] まさかの(笑)

[山本] いやそうですね。なるほど。

[石橋] そう考えると今日の話も、もう一回、もう一周、味わいが変わってくる感じもしますよね。弱い。そりゃそうですよね、女性的だから弱いんだなとか。種を残すとか、子供を残すとか、時間的な継承とかもどっちかというと女性だし。同時代性よりも通時的・経時的・時間を超えてつながって、っていう女性的な。どっちかっていうとね。男のほうが、より現世的に出世欲があったりとか、そういうことだと思うんですけど、男性論理っていうのは。それこそ中世とか古代とかでも、戦争ばっかりして男がたくさん人を殺したり傷つけたりする一方で、女性が子供を育てて絶やさないようにやるっていう歴史だと思うんですけどね。まあ、こういうメタファーでなんでも斬っちゃうのは乱暴なんだけども、今日の話を振り返ったら、おっしゃってたキーワードが、わりと女性論理というか。なんていうか、「母性」っていうのとは違うのかな… 「女性的」っていう印象は受けました。

[山本] そうですね。言われて、そう思いましたよ(笑) ほんと「アーカイブに興味がある」とか、そうですよね。いや、ほんとそのとおりですよ(笑)

[石橋] いや、ほんとぼくもちょっとびっくり。二人でびっくりしてますね。「二人でびっくりしている様子を届けているポッドキャスト」っていう謎の番組になってますけど(笑)

IAは「アンダースタンディング・ビジネス」だけでいいのか

[山本] いや、もちろん仕事では違いますよ。アクセシビリティとか超大事にしないといけないと思ってるし、インストラクションも重要だし、アンダースタンディング(理解)みたいなことはめちゃめちゃ大事にしないといけないと思ってると。例えばWorld IA Dayみたいなイベントでもそうだとは思ってるんですよ。でも仕事よりはそうだと思ってないっていうところもあるんですよ。仕事は「アンダースタンディング・ビジネス」1でいいと思うんですよ。でもWorld IA Dayみたいなイベントはちょっと違っていいんじゃないかと思っていて。

[石橋] 「アンダースタンディング・ビジネス」っていう、ビジネスにアンダースタンディングを重視するっていうのは真っ当な話で、ぼくは批判しないし、みんな合意できるところだと思うんですよ。でも人間が生きるっていうことはビジネスだけじゃないでしょっていうことなんですよね。だから「IAの存在意義っていうのは、産業とか商業とか経済活動だけなんですか?」っていうことなんですよね、結局ね。「経済や商業や産業そういうビジネスからこぼれる、人間にとって大事な情報を扱う分野」っていうのもIAがやらないといけないって考えたときに、やっぱり山本さんが言ってるようなことが大事になってくるっていうことだと思うんですよ。あともう一個やっぱり思ったのは、一昨日のWorld IA Dayの反響として、「ちょっと分かりにくかった」というのもあったと。そういう人たちはアンダースタンディング・ビジネスの側で、「アンダースタンドできない」っていうことを訴えてると。さっきの言葉でいうと現世利益的でもあるし、即効性のある答えや手法やツールが欲しい。それはいま生きて、いま働いていて、いま役に立つことが必要だから、っていう考え方だということなんですよね。でも残念ながら、「いまの我々に必要」ってことを取っ払って、10年後の同業者とか、あるいは30年後の子どもたちとか、あるいは100年後の人類の役に立つことなのか、届くことなのか、そういう観点はあまり持ってない人が、「分かりにくい」とか「抽象的だ」とか「いま仕事にどうつなげていいか分からない」と言ってるような印象を受けるんですよね。そこは将来世代とか未来の人たちへの責任であったり、一方では何かが届くという希望でもあるかもしれないけど、未来に向けて何かを投げかけたり、あらかじめ引き受けて解決しておいてあげようとかいう発想を持ってない人がまだまだいて、そういう人たちにとっては一昨日のイベントっていうのはすごく分かりにくいし、全然満足できなかったということなんでしょうね。でも僕が思うに山本さんみたいなことを考えている人がIA(インフォメーション・アーキテクト)であるべきだとは思いますね。アーキテクト、建築家って名乗っている以上、商業やビジネスの外に出てないと、建築家って名乗っちゃダメだと思うんですよ。日本建築学会が編纂した『建築論事典』で「建築家」っていう項目が最初に出てくるんですよ。それを読んだら「建築家は社会的に重要な職業だとみなされ、そのつくる建築物が公共的に重要であるからして尊敬を集めてきた、という歴史的経緯があるのだ」と書いてあるわけですよね。だから医者や弁護士と同じくらい重要で、尊敬されていて、専門的な教育課程があり、資格制度がある。まがりなりにも我々「インフォメーション・アーキテクト」って、その名前を戴いて、ワーマンも建築の人だし、そういう文脈にそって「IA」って言ってるわけだから、ビジネスだけじゃダメなんですよね。そういう意味では。一昨日のイベントの意図とか内容には、ぼくは賛同しているし、良かったと思っているし、一方ではああいうのが「もっと分かりやすいことやってほしかった」という人たちには、もうちょっと考え方を変えてもらって、ビジネスの外にあるもの、建築家と名乗るからには、「人間のビジネスじゃない部分」に対して、思いを馳せてほしいなと思いますよね。

[山本] そうですね。そもそも去年のWorld IA Dayのテーマは「IA思考で世界をより良くする」だったし、今年なんて “Architecting Happiness” なんですよね。そこにビジネスなんてないんですよね。グローバルテーマをどこまで引き受けるかは各国のホストに委ねられてますけど、ぼくはそのテーマの時点で、もうビジネス的視点を引き受けるつもりはなかったんですよね。

[石橋] ビジネス的な頭しか無い人だと、どうしても “Architecting Happiness” って聴いた時に、「UXデザインで顧客満足度を上げて、ロイヤルティを高めて、ファンになってもらう」みたいなのを期待しちゃうんでしょうね。

[山本] まあそうですよね、そういう発想もありますよね。ぼくはそういうの一切思いもしなかったですよね(笑)

[石橋] 山本さんはそれでいいですよ(笑)

[山本] 「ハピネスってアーキテクティングできるのかなぁ、むしろ、していいものなのか?」とか。

[石橋] そう、「ちょっと立ち止まって問い直す」っていう、ある種の懐疑主義っていうのかな、自己批判精神っていうのとほぼイコールなんですけど、とくにヨーロッパとかイギリス的な懐疑主義。「イギリス」っていう話は若林さんも例に出されてましたよね。ハーバード、MIT、オックスフォード、三つの大学における「イノベーション」の違い。ハーバードでは「チェンジ」、MITでは「ニューネス」(新しいこと)、それがオックスフォードに行くと「いかにFacebookのようなものをイギリスから出さないか」っていう議論をしている。ぼくはそれを聴いて「コンサバティブ」だなと思ったんですね。保守的。コンサバティブっていうのは、別にネガティブな意味じゃなくて、単に「何かを変えることより、残すことを重んじる」っていう言葉ですよね。じゃあ「なんでイギリス人・英国っていうのはコンサバな文化なのか」って考えると、やっぱり「いろいろ変えて痛い目を観た経験」があったりとか、「自分たちがアメリカという超進歩主義的な国を産んでしまった」、あるいは「産んでやった」みたいな、いろいろなことがあって、「単純な進歩主義」に対する警戒心っていうのがありますよね。歴史的にそういうのがすごく醸成されていると思うんですけど。だから、イギリスっていうのは、「単純な進歩主義」に対してブレーキをかけたり、ちょっと立ち止まって考えるみたいな態度がすごくあると思うんですよ、国民性とか知的態度として。一昨日のイベントでも、そんなメッセージを受け取ったんですよね。それで言うと、やっぱりぼくら日本のIAっていうのも、ちょっとスケプティックス(懐疑主義者)を見習って、懐疑主義的・自己批判的に、いまの自分たちの有り様とか、今の自分達をあらしめている土台とか、プラットフォームとか、社会とか、インフラのレイヤー、「下部構造」かもしれない、そういったものをちょっと批判的に見たうえで、ロマン主義的・SF的っていうか「未来にこうなってたらいいな」とか、「こういう社会がいいな」とか、「人間は未来にこうなってたらきっと幸せだろう」とか、そういうことを考えるのが “Architecting Happiness” ってことだと思うんですよ。それを単純な、ある種アメリカ西海岸のイノベーション的な意味での、「新しいものがどんどん出て、古い大きいのがつぶれて、入れ替わって、新陳代謝で、技術はすごい発展して」っていう、それが単純に「ハピネス」になるっていうことではないはずなので。そういう意味では、一昨日話されたようなことっていうのは、“Architecting Happiness” というテーマにすごくつながることだと思ったんですよね。表面的に「ハッピー」みたいなことじゃないと思うんですよ。

[山本] IAってどうしてもウェブの領域で語られるじゃないですか。でもそれってちょっと歴史を遡ってみたら、ワーマンはぜんぜんそんな文脈で言ってるわけじゃないってことは分かるわけですよね。最初って、もう70年代とかですよね。ウェブなんてなかった時代にそんな話をしていて。

[石橋] テレビとか雑誌とかそういうのですよね。

[山本] だからそっちでいいというか、いまってなんか分かりやすくしようとしたせいなのか、「シロクマ本」のせいなのかも分からないですけど、どうしてもウェブの文脈で語られるわけですよね。ぼくはそれが自分を束縛するのも嫌なので、そんな変な意味じゃなくて「ウェブなんてそんなもんだ」と思うようにしてるんですよ、基本的には。そんな過剰に期待してないというか。「きっとそんなもんだ」とか。例えばいろんなことに期待しすぎないようにしていて、それこそ「アクセシビリティ」とか「ユーザビリティ」とかもそうですけど。ユーザビリティにも、片や「つまらない」っていう意見はあるわけですよね。ドナルド・ノーマンも「使いやすいけど、つまらないものしか作らないね」とか言われた時期があるわけですし。ニールセンとかもそうですけど。でも方や歴史とかを色々見ると、イタリア・デザイナーのエットレ・ソットサスとかは、全然使いづらいんだけどすごい派手で目立つものとかを、ポストモダンの文脈で語られることが多いですけど、作るわけですよね。でもエットレ・ソットサスは、そもそも「使いやすいもの」を作ろうとしてるわけじゃなくて、それを「装置」だと呼ぶわけですよ。「記憶を呼び起こすための装置」だと。そういうデザインの在り方も、もちろんあってよくて。ラスコーの壁画みたいなものも、ぼくは「装置」だと思うわけですよ。ずっと残って、なんか記憶を呼び起こされる、みたいな。それで、10万年先の話になると、いまオンカロ、放射性廃棄物を埋めているところも、例えば10万年後に、いまの人類とはぜんぜん違うタイプの人が来たときに、「ここは危ない場所だよ」って思い起こすために壁画みたいなのを描こうとしてるわけですよね。それも完全な「装置」みたいなもので。そういうデザインがやっぱり必要なわけですよ、そもそも世の中のなかに。だから、ただ「アクセシビリティ」とか「インストラクション」とか、そもそも「情報ってそれだけで語れないよね」って思ってるんですよね。だから、あまりウェブのキーワードに固執しないようにするために、あえて「ウェブなんてこんなもんだよね」って思うようにしているっていうところはありますね。

ソットサスらの結成した「メンフィス」のデザイン家具コレクション

ラスコーの壁画

オンカロ処分場のあるオルキルオト原子力発電所

[石橋] 10万年後の人類って、ある意味宇宙人みたいなもので、太陽系外に行ったボイジャーに載ってるプレート、地球人とか描いてあるやつあるじゃないですか、あれに近い話ですよね。それはすごいロマンチックなんだけど、ほんとに「10万年後に向けた手紙」みたいなことになってる。それは「いまの我々の当たり前」っていうもの、つまり、コンテクストをすべて剥ぎとって、捨て去って、「10万年後の人類にも伝わるであろうもの」を考える。それはきっと壁画とかそういうことであって、10万年くらい経っても変わらない我々の生物学的条件とか、脳の作りとか、そういったものから「これは伝わるだろう」みたいな要素を使って、何かメッセージを組み立てるということだと思うんですよ。それはもう「ボイジャーに何を載せたか」という議論とすごい近い議論になってるはずで。それはすごいロマンチックなことであると同時に、すごいデリダ的で、郵便的で、ほんとに「コンテクストを剥ぎとってもなお残るものがある」っていうことなんだろうなと思うし。もう一つは、そういった10万年後の人類に対して、「彼らがうっかり放射能に触れてしまったりしないように」っていう発想自体が、母親のようなね、考え方だなあってことも、ちょっと思いましたね。

ボイジャーのゴールデンレコード

[山本] でもそれって10万年後の人達まで残さなきゃいけないっていうのが義務としてあるわけですよ。圧倒的な事実として。

[石橋] でもそれを「義務」と自然に思えるっていうのが、ある種、「人類には二通りいる」みたいな話であって、そういう考え方をしない、「自分が死んだ後のことは知らん」みたいな人が人類の半分くらいいると思うんですよ。そこがすごいところだなって気がしますけどね。

[山本] そうなんですかねえ、「だって、もうオンカロはあるんだから」って思っちゃうんですよね。考えないわけにはいかないんじゃないかと。

[石橋] たぶん、そう思えるっていうのは、古典を読んだりとかも含めての、千年・万年みたいな過去の人類をわりと身近に感じられるってことと、10万年単位の未来の人類を身近に感じるってことは、多分結構つながっていて、つまり「後ろにどんだけ遡っても、人間って結構変わってない」ってのが分かっていれば、「それを未来に外挿しても、まあだいたい想定の範囲内に行くだろ」みたいな。そういう未来の人類への想像力を可能にするのも、やっぱり、ある種の教養なんでしょうね。そういうのがない人には、10万年後とか、もう「ぜんぜん分かんない」と。「想像しうる、ありとあらゆる可能性があるのであって、何を考えても意味が無い」みたいに考えちゃいがちかもしれない。でも、多分10万年でも、人類はそんなに変わらない部分ってあると思いますよね。それは生物が生まれて億年単位で、例えばDNAみたいな構造ってほとんど変わってないわけだし、「絶対変わらないもの」っていうのはあるでしょうと。

[山本] ほんとに10万年前なんてネアンデルタール人とかそのへんですよね。全然変わってないんですよね(笑)

[石橋] そうそう、それが「普通の」というか、多くの人は、原人とかって「そもそも言葉とか喋ってないんでしょ」とか、「猿みたいなもんでしょ」とか、「知能とか全然ないんでしょ」とか思うほうが「普通」なんじゃないですか。ああいう原人とかを、我々人類と「ほぼ同じようなもの」とみなす想像力って、結構マイノリティなんじゃないかな、とは思います。

[山本] そうですね、たしかに。

[石橋] それこそ江戸時代の人とか、第二次大戦・太平洋戦争中の日本人ですら、我々は「ぜんぜん違う人間」だと思ってしまうのが、我々の世代とか時代だと思うんですよ。もう、「100年遡ったら親近感が持てない」っていう人が多いですよね、いまの日本では。それはやっぱり、あの敗戦とかで、すごい分断が起こった。「集団記憶喪失」みたいになったっていうことがあったと思うんですけど。そういう意味で、すごい特殊な環境にある国であり、文化だと思うんですけど、それにしても、100年・150年って遡っただけで、時代が違うだけで、「同じ日本人、同じとこに住んでて、同じようなこと考えて、同じようなことに泣いたり笑ったりしてたよね」なんてことを、もう全然想像できなくなっちゃってるんじゃないかなあって思いますからね。そういう意味では、やっぱり「未来について考えるために古典や教養を身につける」ってのは、よく言われる話だけど、ほんとにそうだなと思いますね。

〔註:12月8日、真珠湾攻撃の日、アメリカと敗戦について未来志向で考える

[山本] ラスコーの壁画もやっぱりぼくらからしたら「情報」なわけですよね。すごい情報ですよね。哲学の話で、プラトンが残したソクラテスの話だって「情報」だし、あらゆる古典だって「情報」だし、ソットサスの作った機械・装置だって「情報」だし、って考えたときに、いまのぼくらが触れている・携わっている情報もあるわけですよね。じゃあ、それに携わる人として「いま何ができるか」っていう話だと思うんですよ。

[石橋] 「いま何ができるか」っていうことが、「いまの消費者に向けて」っていう意味ではないんですよね。それは二重に間違っていて、「いま」だけを考えてはダメで、将来の人に届いてどういう影響をあたえるか考えないといけないし、「消費者」だけじゃなくて、つまり「ビジネスとユーザー」という関係を離れた、「生活者」とか「人間」っていうものを捉えて、そこへの影響も考えないといけない。そういう意味で、やっぱり「いまの消費者」のことだけ考えているようでは「インフォメーション・アーキテクト」とは呼べないっていうことだと思うんですよね。

[山本] そうですね。せっかくこの時代に「情報」っていうものに携わっているんだったら、「僕らのやることがシンプルに未来に響いてくる」と思っているというか。

[石橋] そうですよね、多分それこそ200〜300年くらい経つと、多分いまの「2015年」とかって「ウェブ黎明期」みたいな感じですよね。我々はもはやそう思わなくなっていて、「ウェブの競争も一段落して、もうグーグル、アマゾン、アップル、マイクロソフトとかの主要なプレイヤーが出揃って、競争も一段落した」くらいに思っちゃってるけど、でも200〜300年先の人から見ると、まだ「情報技術の黎明期」で、そもそも発明したオリジン(始原)の人達がまだ生きてるわけだから、ぜんぜん「一呼吸」「一世代」みたいな話ですよね。200〜300年先に振り返れば、その程度。そういうスケールの歴史の時間軸で考えると、ほんと「点」みたいな。もう一緒くたにされるレベルの。だから我々は「もう20〜30年経った」とかじゃなくて、「いま我々がウェブを作っている」と、多分200〜300年後の人類にみなされる。そう考えると、やっぱり責任感は持ったほうがいいっていうことですよね。我々は「出来上がったウェブ」の上で何かをやってるわけじゃなくて、この巨大なエコシステムを「いままさに作っているんだ」という意識は持ったほうがいいでしょうね。

[山本] そうですね。ほんとにそうだと思うんですよね。で、やっぱりそういう時代に生まれて、やっていて、やるべきことっていうのは、「べつにビジネスだけを考えることじゃないでしょう」っていうのは普通に思ってしまうんですよね。だからぼくはやっぱり自分が何かやったことが、ポンって投げたものが「痕跡」として残るっていうのを、ロマン主義的に信じているので、「それに賭けたい」っていうのはありますよね。だから、そういう意図も背景としてありつつ、この前の企画だったっていうのもありますよね。

時を超える「弱さ」の可能性

[石橋] そういう意味だと、「弱いIA」「弱いロボット」みたいな議論からひとつ見えてくるのは、あの「弱いロボット」の「弱さ」っていうのが、幼児の振る舞いとか、可愛さとか、可哀想な様とかを連想させたりすることがあると思うんですけど、「かわいい」と「かわいそう」って語源的にも近くて、それっていわゆる憐れみみたいなものを催すわけじゃないですか、見る人に対して。それってすごくプリミティブな感情として起こってくるんですよね。それはいまの我々の「人権」とか「民主主義」とかいったものとほとんど関係なく、多分、数万年前でも、数万年後でも、目の前で幼い姿をした何かが「よたよた」と転びそうにしてたりとかすると、なんか助けたくなってしまうんだと思うんですよ、人類っていうものは。きっとそれは人種とか性別とかと全く関係なく。そういうのがまさに言葉とか時代とかを超えて通じるものかもしれなくて、それがある種の「装置」としてアーキテクトされたり、コードされたり、デザインされたりしたときに、ひょっとしたらそれが「弱いIA」として、1万年後の人に対して何かを訴えかけ、揺り動かしてしまうのかもしれない、なんてことを、今の話から思ったりしましたね。いわゆるローティの「憐れみ」みたいな話は、東浩紀さんも『弱いつながり』にも書いてたと思うし、『一般意思2.0』にも書いてたと思うんだけど、あれがなぜローティの原理になっているかっていうと、それが我々のイデオロギーとかイズムを超えたところで本能に訴えかけるから「弱いつながり」を可能にするっていう議論なんですよね。それは数万年単位で変わらない我々の、今風に言うと「進化倫理学的な条件」というか、何十万年・何百万年とかけて獲得されてきた、脳に刻み込まれたきた、ある種のバイアス、ダニエル・カーネマン風に言うと「システム1」「システム2」みたいなやつ。自動的に動いてしまうシステム。ヒューリスティックスみたいなものとしてあるんでしょうね。目の前の脆いもの・弱いものに対して、「憐れみ」を感じて、揺り動かされてしまうっていうのは。それを使うっていうのは、我々の言葉が失われて、まったく違うコンテクストに生きている人に対しても、何かを届ける手段になるのかもしれないですよね。それこそ『ウォーリー』っていうアニメ映画があったじゃないですか。ピクサーかディズニーか。「ごみ処理を一人で延々と何万年2もやってる、ちょっとかわいそうなロボット」みたいな話だっけど。オンカロとかで求められているのは、そういうのかもしれないな、なんて思いましたけどね。

ウォーリー

[山本] うーん、それはあるかもしれないですね。

[石橋] なんか可哀想なんですよ。一人ぼっちで何万年も片付けをやってるっていう設定でしたよね。一昨日のイベントを振り返ると、そういう意味で示唆的なセッションだったんだなと思いました。

[山本] 「弱い」っていうキーワードは持ち込みたかったんですよね、正直、情報アーキテクチャの領域に。それもけっこう僕の趣味が出ちゃってますけどね。ぼくがもともと「コンテクストに頼らない、剥ぎとったところで、何か伝わる」とかを考えていたから、『弱いロボット』にすごい親近感を覚えて。「これをちょっと情報アーキテクチャ領域に持って行きたいな」って思ったっていうのもありますね。

[石橋] そうか、ぼくなんかはやっぱり東浩紀さんの本をよく読んでいて、そういう意味で「弱い」っていうキーワードが、『弱いつながり』っていうタイトルの本の内容からつながっていくし、「弱いIA」『弱いロボット』っていうのが、『弱いつながり』つまり「憐れみ」っていうところにつながるんだなあ、っていうところは今すごくヒントをもらったなあって思いましたね。

[山本] ルソーとかが言ってたのもそういう話ですよね。

[石橋] 道徳。感情。

[山本] 「だから社会を作るんだ」みたいな話とか。

[石橋] そういう意味では、岡田先生が何度も繰り返し話されてたのが、多分「印象づけようとされてたのかな」とちょっと思ったのが、「ごみ箱のロボットが、一個だと弱いから子供にいじめられたりするけど、二個三個群れになって歩いてると、要は社会を形成して、群れを形成してると、存在感が出てくるというか、コミュニケーションが変わる」みたいな話をされていて。それがまだ異種なものとしてあるから、まだ人間とロボットとの力関係とか、牽制とかの話になっているんだけど、それがもっと我々人間社会のソーシャル・ネットワークの中に入ってきたときには、また違う話になるはずで、「弱いロボットが介在するコミュニケーション」とかになってくるんですよね、たぶんね。なんか「ガンダムでハロがいるのにはどういう意味があるんだろう」とか、そういう話だと思うんですけど。弱いロボットがたくさんいて、ペットとかに近いのかもしれないけど、それによって人間だけで社会を構成するのと何か違う社会システムになるわけですよね。コミュニケーションの起こり方が違ってくるから。それは「弱いロボットを、どういうものを、どこに配置するか」ということで、「デザイン」ができるということなのかもしれないし、ある種、あざとい発想だけど、「ちょっと可愛い・可哀想な弱いロボット」みたいなのを上手く使うことで、ギスギスした人間関係でも、ちょっと弱い奴(ロボット)が現れて、みんなそっちに注意が向いて、険悪な空気とかもどうでもよくなって、とか。その場の空気を変える機能とか、(人間側に)「一緒に解決すべき問題(としてのロボット)」が現れることによって、本質的にはどうでもいい衝突が解消されるとか。そういったこともひょっとしたらあるのかもしれないと思って。ああ、そうそう、やっと出てきた、士郎正宗の『アップルシード』っていう作品があって、「オリュンポス」っていう未来都市があって、人口の半分が人造人間みたいになってるんですよ。「それが潤滑油になることで、人間社会で争いが起こらない」みたいになってるんですよ。「弱いロボットのいる社会」ってそういうことかもしれなくて。アップルシードは、やっぱりというべきか、半分ディストピア的、半分ユートピア的、両義的で、ぼくが観た印象では、どちらかはっきり結論を出そうとはしてはいないんだけど。そういった「人工物が人間を模していて、社会の在り方を変える」っていうことに対する「設計主義批判」みたいなのもすごい描かれているんですよ。でも一方では、「人間ってそういうのがないともうダメな未来になるんじゃないか」みたいな考え方もなんとなく感じるし。そこは両義的な描き方をしてた気がするんだけど。ああいうのが「弱いロボットがいる社会」の一例なのかなって思いましたね。つまり、すごく自然にコミュニケーションを人間と取れて、人間社会の中で普通に振る舞って、普通に働いたりして、人間とまったく同じように暮らしてたりするんですけど、なんか「感情がない」とか「感情が起こらない」とかいう設定なんですよ。だから「バッファ」(緩衝材)として設計された「人間もどき」なんですよ。それは「弱いロボット」の延長でいくと、そういうのになって、しかもそれがもっと子供の姿とかをしてるんですよ、きっと。それはすごく争いを減らしそうな反面、すごくヤバい感じもしますよね。そんなことを考えさせてくれるテーマかもしれない、「弱いIA」「弱いAI」みたいなことを考えると。

[山本] 確かに、やばそうな気もしますよね。

[石橋] ほんとこういうのって分からないんですよね。SFって、「ディストピアもの」っていうのも、ほんとに「こういうの絶対ダメ」って描き方をするのって珍しくて。『1984年』とかは、わりとストレートに「ディストピア」的な描き方だけど、『すばらしい新世界』とかとくにそうだけど「必ずしもディストピアかな?」って。「悲劇」が描かれているんだけど、その「悲劇」の当事者以外には「素晴らしい社会」のようにも感じられるし。伊藤計劃の『ハーモニー』にもそういうところありますよね。つまりあの結末が「ダメ」なのか「いい」のかっていうのは、議論の余地があるところで。あのエピローグの社会っていうのが「絶対嫌だ」っていう人もいるんだろうけど、それは「いまの社会の価値観」で考えると「絶対そうなりたくない」んだけど、そうなっていたらじゃあどう思うだろうかって考えるわけですよね。なんてことをちょっと考えたりして。あれはやっぱりすごい話で、今日の話にちょっとつなげると、「人間の在り方そのものが変わる未来」っていうものを想定したら、さっきの「憐れみが人類普遍のOSだ」っていうのが通じなくて、OSが「メジャーバージョンアップ」というか、MacでいうとOS 9がXになるくらい変わっちゃうわけですよ。「UNIXベース」になる、みたいな感じじゃないですか。つまり「憐れみという感情がなくなっちゃう」みたいなのが描かれちゃう。そういうときに、「いまの人類がどんなに工夫してもまったく話が通じない」っていうおそれはあって。「郵便も届かない」みたいな。じゃあ、そんな状態をさらにメタに捉えると、「人類をそのように転換させること」っていうのは「正義」なのかっていう。そういうのが多分これからどこかのタイミングで大激論になるのかもしれないですよね。それくらいメタに考えないといけない問題になってくるんだろうなと思いますね。それって結局「技術を使って人間をどうにかする」って、基本的に「人為」の問題で、「自然の脅威」とか「必然」とかじゃなくて、すべて「人の意志」によって行われることだから。そういうものを人間社会は、少なくともいまの近代社会は、「なし崩し」ではなく「ちゃんと決めたがる」ので、そういう意味では、すごい宿題がこれからどんどん顕在化してくるのかなという気はしますよね。

[山本] そうですね。

IAについて言論する意味

[石橋] でも、なんか、こういうことを考えさせてもらえたっていう意味でも、テーマ設定はすごく良かったと思いますよ。「弱いIA」っていうのは。いくらでも将来のことを考えるヒントになってくれるなと思いますね。

[山本] 「こういうことを考える人がもう少し増えるといいな」とは思ってますね。まあ、増えなくてもいいかもしれないです(笑)

[石橋] まあ、ぼくらみたいな人達がこうして語って、それを配信したりして、ちょっとでも聴いてくれる人を増やし、またそれをランダムに受け取る、郵便が届いちゃう人がいて、そういう人がこういうトークに、議論に、参加してくれるようになって、それでこういうことを考える人が増えていく。そういうプロセスしかないと思うんですよ。野中郁次郎さんもそういうふうに言ってるし。身近な人から巻き込んでいくしかない。ただ、「野中さんプラス東さん」みたいな。「身近じゃない人にも届く」っていう可能性を信じながら。そこがポッドキャストとか、ブログとか、ツイッターとかの素晴らしいところなのでね。リツイート三回くらいされて、ぜんぜん何のつながりもないところに届いちゃったりするっていう、そういうのがいまのウェブのいいところだなと思いますけど。

[山本] そうですね、面白いところですよね。で、それがもしかしたらなんかとんでもないことを引き起こすかもしれないんですよ。でもそれはもう分からないので、こっちとしては「いまやれることはなんだろう」と考えて。これはこの前の猪瀬直樹さんのトークでも、猪瀬さんが「いま自分が持ち場でやれることを一生懸命やればいいんだ」とおっしゃってましたけど、まさにあれだなと思ってて。いまこの時代で、ぼくらがこの仕事をしていて、「将来のために何ができるか」って考えたときに、こういう会話を残しておくとか、これを一生懸命やることかな、みたいに思うんですよね。べつに今の人に向かって便利なコンテンツを届けるとかじゃなくて、それはそれでやってくれる人がやってくればいい、ぼくはたまたまそうじゃなかった、みたいな話かなと思ってるんですよ。

[石橋] いや〜…… なんか、すごいいい話ができたなあと思って(笑) いや、まさかこんな深い話になるとは思わなかったけど。

[山本] ぼくも自分が女性だということに気づいて(笑)

[石橋] びっくりですよ。ぼくもびっくりですよ(笑)

[山本] いや、「しっくり」きちゃいましたからね。「なるほど」と。

[石橋] ほんと、このタイミングでお話できてよかったですよ。今日もいろいろな気付きを頂いたし、問いも生まれたし、また引き続き考えて、話して、またこういう言論活動(ディスコース活動)をやって、こういう「IA仲間」を増やしていきたいと思いますね。じゃあ、今日はそんなとこで、だいぶ長くなりましたが、おつきあい頂きありがとうございました。

[山本] ありがとうございました。

  1. リチャード・ワーマンは「アンダースタンディング・ビジネス」を提唱しました。詳しくは松岡正剛の千夜千冊 1296夜『理解の秘密』リチャード・ワーマンをご参照ください。 

  2. 正しくは「人類が地球を去ってから700年」