ビジネス界隈で「アート思考」と呼ばれるものの実態は「クリエイティブ思考」だろう。では、言葉の本来の意味での「アート思考」は一体どういう意味になるべきか。それは、アートの営みが拠って立つ原理のように思考することだと思う。
ちょっと分かりにくい言い方かもしれないので、易しく言い直してみる。アートという営みは、一体どういう作動原理によって動いているのだろうか。その原理を理解し、その原理に従って様々な物事について考えてみるということ。そのような思考を「アート思考」と呼びたい。
では、アートの営みの根底にあるのは、一体どういう原理なのだろうか。それは、人工物の制作における規範と逸脱の歴史的動力学だろう。
これも簡単に言い直しておくことにする。道具にせよ作品にせよ、何らかの物を作り出す人々がいる。物を作る人は、必ず何かを手本とする。そこには従うべきルール、つまり規範がある。
そのような規範は、時代とともに移り変わっていく。移り変わるということは、つまりこういうことだ。ある時点での規範を逸脱する美意識があり、それが次第に支持を得ることで、新たな規範として取り込まれていく。逸脱のダイナミズムによって規範が更新されていく。
そのような運動は人類史に渡って繰り返されてきたし、今後も繰り返されていく。
逸脱もまた完全に新奇であることなどない。かつて歴史上存在した規範を参照し、それを復興するという形を取ることがほとんどである。その代表例が、教会の宗教的美意識が支配的だった時代に、古代ギリシアの人間中心的美意識を復興したルネサンスだ。規範と逸脱の動力学は、過去の歴史を参照しながら繰り返される。
以上のことを短く言うと、「人工物の制作における規範と逸脱の歴史的動力学」という言葉になる。
さて、身近なiPhoneという例について考えてみたい。それ以前の携帯電話のユーザーインターフェイスは、テンキー、カーソルキー、スタイラス(タッチペン)などを使うことが常識(規範)だった。そこに「フィンガータッチの方が優れている」という異質な美意識をぶつけた。そう、「美意識」なのだ。iPhoneの勝利は単なる技術的合理性では説明できない。これは「より便利」「より高性能」だとかいう話ではない。
2007年に最初のiPhoneを紹介したスティーブ・ジョブズのプレゼンテーションを思い出してみればいい。彼はスタイラスという当時の規範に対して、「ウンザリ」という負のレッテル貼りをした。
その上で、指で直接タッチできるスクリーンは「魔法のようだ」という美意識を訴求した。
iPhoneをひっさげたスティーブ・ジョブズが当時の競合スマートフォンに対して挑んだのは、技術の戦争ではない。美意識の戦争だった。この点は誤解されがちだ。
このような規範と逸脱の動力学は、まさにアートヒストリーのアナロジーで理解できる。アートの世界でも、規範を逸脱するような表現がいくつも登場してきた。その多くは単に黙殺されてきただろう。しかしその中で、当初は批判されつつも支持を集め、結果として美術史に登録されたものがある。例えば印象派、キュビズム、フォービズム、もの派など。そういった、今日我々が知るトレンド(芸術運動、アートムーブメント)も、最初は規範からの逸脱であり、批判の対象だった。
ついでに言えば、「〜派」「〜イズム」などの言葉は、当初は蔑称だったものが次第に正式名称として定着したものも多い。それらの運動が当初は逸脱として始まったことの動かぬ証拠だ。
忘れがちだが、iPhoneだって最初から理解されたわけではない。「こんなもの流行るはずがない」という懐疑的・批判的な意見の方が多かったと思う。そもそも最初から全員に理解されるものは、規範からまったく逸脱していないということになる。逆に言えば、新たなトレンドを作りたい者は、万人に理解されることをしてはならない。
iPhoneが作り出したスマートフォンのあり方が、現在のファッショントレンドになっている。これはあくまでトレンドであって、将来は分からない。ブラックベリー型やスタイラス型、あるいはフィーチャーフォン型の復権もありえると思う。
技術にばかり関心が向いている人は、「携帯電話はスマートフォンに進歩した」と考えがちだ。単純な進歩史観。しかし、実際にはそうではない。
例えば、なぜ2020年にアナログレコードが売れているのか。「中高年の懐古趣味」では説明がつかない。若者に人気なのだから。彼らは技術的に優れている(と一般に思われている)配信やCDよりも、劣った(と一般的に思われている)アナログレコードを好む。これが美意識だ。技術の問題ではない。
同じことが携帯電話についても言える。そもそも携帯電話にはアクセサリー(服飾小物)としての役割もある。ファッショントレンドの変遷と無関係なはずがない。
冒頭の問題意識に戻る。「アート的な思考」という言葉は、本来こういう思考を指すべきだと思う。規範と逸脱の歴史的動力学という枠組みを用いて状況を分析する思考。より抽象的に言えば、過去を参照しながら規範を逸脱していく再帰的な経路依存性において、社会の運動性を理解するということ。
「再帰的な経路依存性」を言い換えれば、要するに「新しいアイデアは無から生まれることはなく、必ず過去の歴史の中から再発見されたものの変奏として現れてくる」ということを「再帰的」と呼んでいる。
また、「過去にこうだったから、今こうなっている」という歴史的経緯が全ての物事を制約しているということ。そこから自由な逸脱や飛躍など人間社会にはありえないという制約、あるいは法則のことを「経路依存性」と呼ぶ。(余談だが、経路依存性への意識は、良い意味で、そして本来の意味での保守主義に通じる)
アート的思考とは、トレンドが移り変わっていく運動の法則を、
- 過去の歴史を参照して自らを更新していこうとする再帰性と、
- あらゆるものが過去の経緯によって制約されるという経路依存性
とを通じて理解していく思考のことだ。先に「規範と逸脱の歴史的動力学」について説明した。そのダイナミズムを生み出す、より根底的な力が再帰的な経路依存性だということになる。
同じことはファッションについても言える。ファッションにおける美意識(おしゃれ)の本質は「差異」(人とは違うこと)だ。
あるトレンドがあまりにも普及しきって、みんな同じようになってしまえば、先進的な人(おしゃれな人)はそこから逸脱しようとする。人と違うことをしようとする。その結果、新しいトレンドが生まれる。それもまた人々に真似され、しまいにはみんなに行き渡る。そうすればまた先進的な人は差異を求めて違うことを始める。
その運動はまるで回転運動や潮の満ち引きのように定期的に繰り返す。逸脱のリソース(元ネタ)は、ほとんどの場合、過去のファッション史から引っ張り出されてくる。過去の歴史があるからこそ、新たな創造が可能になっている。
アートにせよ、ファッションにせよ、デザインにせよ、学問にせよ、なんであれ人間が関わる物事(人文)には、こういう循環運動がある。いわば敗者復活戦がある。
これこそ文系(人文知)と、理系(科学・工学)との違いでもある。文系の対象が人文(人間に関わる事物)であるのに対して、理系の対象は自然(人間でないもの)である。理系の論理の中には、過去に「敗者」となった理論が復活してくることはない(ごく稀に例外はあるが)。天動説の復活はないだろう。理論は単線的に進歩し続ける。後戻りはない。そういうシンプルな進歩史観が理系の世界観だ。
しかし、アートやファッションなど文系の領域においては、過去のトレンドが何度も再来してくる。この点において理系と文系の世界観は全く違う。文系では単純な進歩史観を採用することは難しい。
これまでIT業界は歴史が短かった(というのも本当は誤解なのだが、一般大衆にとってのIT業界史はせいぜい1995年くらいから始まっているだろう)。したがって、IT業界の中で歴史的循環を意識することなどなかったかもしれない。だが、IT業界の歴史も充分に長くなってきた。今後はアートやファッションと同じように、過去のトレンドの再来が普通になってくるだろう。
IT業界に多い技術的進歩史観の人には理解しづらいことだろう。彼らの考えでは、「過去は全てにおいて現在より劣っており、未来は全てにおいて現在より優れている」ということになっている。しかし現実はそうなっていない。単にIT業界の歴史が短く、過去のトレンドの再来を目にしたことがないために、単線的に進歩してきたのだと勘違いしているだけだ。
今月(2020年11月)発表された話題の新型コンピューター Raspberry Pi 400 (ラズベリーパイ400)を見てみよう。キーボードにパソコン本体が組み込まれている。電源とマウスとディスプレイを接続すれば、完全なコンピューターとして使える。このようなコンピューターは現在の市場にほとんど存在していない。
キーボード一体型パーソナル・コンピューターという形態を「新しい!」と思う人もいるかもしれない。ところが、これはむしろパーソナル・コンピューター史的には先祖返りに近い。40年ほど前には、むしろ主流だった。
ラズベリーパイ400のようなキーボード一体型デザインが、今後のトレンドになるかどうかは分からない。ただ、「過去の歴史を参照しつつ、現在の規範から逸脱する」という創造の運動性を見出すことはできるだろう。IT業界にも、アート界と同じような創造の運動がある。だからアート思考はIT業界も射程に入れることができる。
この話も終わりに近づいてきた。最後に、アート思考でアイデアを出すための方法について考えておきたい。それは「歴史を学べ」という一言に尽きる。歴史の中にヒントがある。歴史上の出来事を単に点で捉えるのではなく、線として、物語として理解することだ。例えば「シンプルなトレンドが流行した後には、複雑なトレンドが来て、またその次はシンプルになる」といった具合に。
世間で「アート思考」という言葉が使われるとき、その意味は「過去や常識に囚われることなく、自由にアイデアを出す発想法」といったものだ。しかし、実際のアーティストやファッションデザイナーがやっていることは全く異なる。
作家は歴史上の作品を驚くほどたくさん知っている(専門家なのだから当然だ)。過去の作品やトレンドを参照しつつ、同時代の作品やトレンドも横目に見ながら制作している(展覧会やコレクションをまめにチェックする作家は多い)。主流の規範に、かなりの程度まで従っている(そうしないと、そもそも「作品」として成立しない)。しかし、どこかで逸脱することも常に模索している(創造の価値は、他との差異から生じるのだから)。自分の逸脱が人々に支持され、トレンドになっていけば、「新たなトレンドの創始者」として歴史に名を残すことができる。
ある種のハードコアなアーティストたちは、こういうゲームをプレイしている。村上隆を思い浮かべてもらえれば分かりやすい。彼はこのゲームのプレイヤー役を、露悪的なまでに徹底的に演じている。
https://www.gentosha.jp/article/11800/
日本人アーティストはなぜ世界で通用しないのか?|芸術起業論|村上隆
こう考えれば分かるように、アーティストは通俗的な「アート思考」の理解とは異なり、むしろ「過去や常識に囚われ」まくっている。まったく「自由」ではない。しかし、それは決して悪いことではなく、むしろ創造の源泉となっている。
アートというゲームにはルールがあり、観客もいる。ルールと観客の存在こそが、アーティストによるアートのプレイを可能にしている。アート思考とは、つまりはルールと観客について考えることである。それらは固定的ではない。ルールを書き換えたり、新たな観客を作り出す試みもまた、アートというゲームにおいては高得点(美術史への登録)につながりうるプレイなのである。
これで「アート思考」の話は終わり。まとめておく。
創造におけるトレンドの変遷は、規範と逸脱の歴史的動力学によって理解できる。その動力学は再帰的な経路依存性の法則に支配されている。アーティストは規範という不自由なものに従ったり、逸脱したりする。規範とダンスする。その運動から価値を生み出していく。それがアーティストという存在であり、そのプレイを支えるのが(私が考える)アート思考である。それはゲームのルールと観客についての思考である。
このようなアート思考は、「過去や常識に囚われない自由な発想」などという、通俗的な「アート思考」の理解とは全く異なる。むしろ真逆に位置するものだ。そして、遥かに射程が広いものだ。あらゆる人文領域におけるトレンドの変遷を理解することに役立つ。さらには、新たな価値の創造にも役立つ。
結局のところ、アート思考とは、歴史を使って歴史に介入し、自分に有利な歴史を作っていくための戦略思考なのだ。