この文章は次の二つのことを言うために書かれている:
- 「高齢者のためのやさしいコンピューター」を作ろうとしてはならない。そもそもパーソナル・コンピューターは「あらゆる年齢の子供たち」のために構想されたのだから。
- 「人は年をとったら新しいことなど学ばなくなる」という思い込みを無くすべきだ。このような思い込みの蔓延によって高齢者は抑圧され、学ぶ意欲を奪われている。
そしてこの文章には何人かの人物と、認知科学・心理学の知見と、広告キャンペーンと映画が登場する。楽しんで頂ければ幸いである。
台湾のデジタル担当大臣を務める唐鳳氏が話題だ。
https://www.mag2.com/p/news/439197
新型肺炎で「神対応」台湾の天才IT大臣やエンジニア達に称賛の声 - まぐまぐニュース!
2019年末に中国から広まった新型コロナウイルス感染症(COVID-19)は、瞬く間に世界各地へ飛び火した。台湾でもマスクが不足する事態に陥った。
その問題に対処すべく、デジタル担当大臣の唐鳳氏が主導して「マスク在庫マップ」が開発され、ウェブで公開された。マスクの購入にはIC保険証の提示が必要で、買い占めできなくなっている。
この取り組みの特徴を洗い出してみると:
- 誰でも自由に利用できる形で公開された「オープン・データ」
- 有志技術者がインターネット上で協力してソフトウェアを開発する「オープン・ソース」
- 技術によって社会問題を解決する市民主体の取り組み「シビック・テック」
- 国民に公平な購入機会を担保する「国民ID」(日本のマイナンバーに相当)
などの先進的な特徴がいくつも含まれている。コンピューターによって社会の問題を解決している。じつに素晴らしいことだ。
そんな唐鳳氏のインタビュー記事が話題になっている。
https://toyokeizai.net/articles/-/327954
台湾の「38歳」デジタル大臣から見た日本の弱点 | 最新の週刊東洋経済
この記事の中でも特に次のフレーズが共感を集めているようだ:
高齢者はIT社会で何一つ変わる必要はありません。ITのほうこそ、人間に近くなるように調整されるべきなのですから。
この発言を称賛している人が多い。なるほど、人々は「高齢者はコンピューターが苦手だ」「高齢者はそもそも新しいことを覚えることが苦手だ」などと言っている。高齢者に「あなたは何一つ変わる必要などない」と言えれば素晴らしい。これこそ来るべき情報化社会だ。
人々はそう考え、この発言に共感しているのだろう。
しかし、本当にそうなのだろうか。
パーソナル・コンピューター黎明期の議論を振り返ってみよう。現代のパーソナル・コンピューターにつながる主要なアイデアは、アラン・ケイによって半世紀ほど前に構想された。その有名な論文には、「あらゆる年齢の子供たちのためのパーソナル・コンピューター」という、いささか奇妙な題名が付けられている。
「あらゆる年齢の子供たち」とは一体どういう意味だろうか。
ケイはパーソナル・コンピューターの構想を書いた論文の中で、子供の発達や学習について多くの言葉を費やしている。ケイは発達心理学のジャン・ピアジェや、児童教育用プログラミング言語LOGOを開発したシーモア・パパートからの影響を受けてもいる。
つまり「あらゆる年齢の子供たち」という言葉は、「あらゆる年齢の人にも子供と同じような学習力が備わっている」「人はいくつになっても学び続けることができる」という信念の表明に他ならない。それがパーソナル・コンピューターという理念に埋め込まれている。
パーソナル・コンピューターを通じて、人々は物事を学び、よりよい自己を実現していく。そのような生涯学習プロジェクトを支援するために、パーソナル・コンピューターは構想された。その理念は今日も生き続けている。
アラン・ケイのパーソナル・コンピューターの理念から強い影響を受けたのがAppleだ。Appleが広告で発しているイメージを考えてみよう。自宅で簡単に確定申告できるとか、職場で経営管理の効率が上がるとか言っているだろうか。そうではない。絵を描いたり、写真を撮ったり、音楽や映像を作ったりするイメージだろう。人間が創造的に成長するための道具というイメージを売っている。1
パーソナル・コンピューターという理念は、人間は一生成長し続けるという信念によって基礎づけられている。高齢者の成長可能性も見限ってはならない。
もちろん高齢者がコンピューターをうまく使えないこともある。より良い設計へと改善する機会だ。ただし、そこで「高齢者向けバージョン」を派生させるのはまずい。あらゆる年齢の子供たちが使えるように改善すべきだ。
コンピューターの開発には多くの人が携わっている。ハードウェアだけでなく、ソフトウェアも。オペレーティング・システム(OS)だけでなく、アプリケーションやウェブサイトも。技術者だけでなく、デザイナーやプロダクト・マネジャーも。みんなコンピューターを作る仕事だ。
コンピューターを作る仕事は、社会の未来を作る仕事だ。そういう仕事だから、「より良い社会とは何か」という問いに向き合わなければならない。つまり、コンピューターを作ることは、思想を実装することでなければならない。
私たちはすでに思想を引き継いでいる。人間は一生学び続ける主体であるという思想を、アラン・ケイから引き継いでいるのだ。コンピューターの作り手には、その思想を実装するというプロジェクトが託されている。
あらゆる年齢の子供たちのためのパーソナル・コンピューターは、未完のプロジェクトだ。未解決の課題は数多く残されている。それだけに、やりがいも大きい。
アクセシビリティ(アクセスしやすさ)やインクルーシブネス(誰でも受け入れ)の価値を実現しよう。ユニバーサル・デザインにしたり、カスタマイズ可能にしたり、パーソナライズしたり、プログラマブルにしたり。
また、ユーザーがそれ以前のやり方を変えなくていいようなIT導入には、別の問題もある。それではITを導入しても効率が上がらないという問題だ。
多くのIT導入プロジェクトは、その目的を「ユーザーの手間を減らすこと」や「業務の効率を上げること」に設定している。しかし、ユーザーのやり方を、IT導入以前のアナログなやり方と全く変えずに、ただ単に紙を電子データ化するだけでは、ほとんど意味はない。
例えば、役所への届出を電子化することを考えてみよう。多くの事例で、紙の届出様式と全く同じ見た目の入力フォームを再現し、そこに入力させる設計になっている。しかし、それでは、紙に書いて郵送手続きするよりも何か便利になっているのだろうか。むしろ意味不明なエラーに遭遇することも多く、ほとんど紙より退行している事例が多いと思わないだろうか。
なにが拙かったのか。紙のときとまったく同じやり方が拙かった。IT導入に際して新しいやり方を導入しなかったから拙かったのだ。
真にITを活用した届出とは、一体どういうものだろうか。例えば、入力途中に疑問点・不明点が生じた際に、これまでは自分で解決するしかなかった。解決できず、なんとなく記入して「不備」で返却された経験は誰にでもあるだろう。IT化によって、このような不備を未然に防ぐことができるようになる。
具体的には、係員が対面で記入を支援するノウハウを、AIチャットなどで実現することができるだろう。係員に支援してもらうには窓口まで行かなければならないし、窓口が開いている時間も限られているし、待ち行列もありえる。しかし、IT化すればそのような制約から解放される。こういった新たな価値こそIT化の恩恵だ。紙を単にデジタル化しただけのシステムにはない、新たな価値だ。
あるいは、多くの届出様式に存在する条件分岐をなくすこともできるだろう。役所の届出様式には、「(5)の回答が(イ)の方は(6)は記入せずに(7)へ進む」といった、複雑な条件分岐が頻出する。しかし、デジタルな入力フォームであれば、このような条件分岐の複雑性をシステムの側で吸収することができる。(5)の回答が(イ)なら、単に(6)欄を非表示にすればいいのだ。これはまだ単純な例であって、もっと複雑な条件分岐(金額が10万円以上100万円未満の方は云々など)もある。そういう届出様式において、このようなデジタル化の恩恵は計り知れない。
初めて記入する人が必ず「記入不備」で返却されてしまうような、高エラー率の届出書式というものがある。IT化によって、そういう難解なパズル的届出様式を、劇的にシンプルにできる。人々の記入のストレスが減り、記入不備が減り、業務効率も上がる。これもまた「単なる紙のデジタル化」ならぬ「真のIT化」ならではの価値だ。
たった二つの例からでも、それ以前のやり方(紙)とは異なるITの価値を理解して頂けるだろう。早くこういうことが実現されてほしいものだ。
この話のポイントは、このようなIT導入の恩恵のためには、ユーザーのやり方も変えなければならないということだ。紙を単にデジタル化すればいいというものではない。それではむしろ紙より不便になる例も多い。ユーザーはデジタルなやり方に適応する必要がある。だから「高齢者はIT社会で何一つ変わる必要はありません」という考え方には賛同できない。
https://hideishi.com/blog/2016/12/29/japan-productivity.html
日本人の低すぎる生産性とIT百姓一揆
そもそも人は年齢によって差別されるべきだろうか。人は全員が老いていく。私も、あなたも。ならば高齢者を差別しない社会にしていくべきだ。自分自身のために。
エイジズム(年齢主義)という言葉がある。年齢差別に肯定的な考え方を意味する。そういう考え方を批判するときに用いられる言葉だ。
「とはいえ、年を取ると物覚えが悪くなるのは事実なのだから、これは差別などではない」と思う人もいるかもしれない。
ここで近年の新しい知見を紹介しよう。先進各国で人口構造の高齢化が進展するにつれ、高齢者の認知機能に関する研究も進んできた。その結果、「年を取ると認知能力が低下する」という社会通念に疑問が呈されるようになってきたのだ:
健常な老人の脳には、衰えを示す証拠はほとんど確認できなかった。処理速度の低下や若干の物忘れの傾向が見られたがそれも予想通り。情報量が増えるほど検索対象が広くなり、時間をかけてより多くの情報を吟味するようになるからだ。
— 言語学研究者 ミヒャエル・ラムスカー(Michael Ramscar)
出典:脳機能の老化は知識量の増大も要因 | ナショナルジオグラフィック日本版サイト
ほぼどの年齢においても、ある能力については向上が、ある能力については低下が見られる。
— 認知科学研究者 ジョシュア・ハーツホーン(Joshua Hartshorne)
出典:集中力は43歳! 人間の脳のピーク年齢は、能力ごとに違っていた | Business Insider Japan
さらに興味深い研究がある。高齢者自身の「年を取ると記憶力が衰える」という思い込みが問題なのだという:
米タフツ大学の研究グループは、18~22 歳の若者と60~74歳の年配者を集めて次のテストを行いました。「年をとると、どれだけ記憶力が衰えるかを調べます」と伝え、たくさんの単語が書かれたリストを見せます。その後、別の単語リストを見せ、その中に、前のリストと同じものがあるかを言い当ててもらうというものです。正答率は、若者グループは48%、年配者グループは29%。思ったとおりじゃないか! と言いたくなってしまいますが、面白いのはここからです。研究者たちは別に、「記憶力テスト」ではなく「言語能力を調べるテスト」と伝えてテストを受けてもらいました。内容はまったく同じなのに、結果は……、若者49%、年配者50%。なんと、差がなくなったのです。研究グループは「年をとると記憶力が衰える」という思い込みが、自分の記憶が正しいかどうかの自信をなくす要因の一つになっていると指摘しています。
— 医療ジャーナリスト 市川衛
出典:「年をとると記憶力が衰える」は誤解だった? | 講談社くらしの本
次に紹介するのも同様の研究結果だ。いろんな豆知識を覚えてもらう記憶テストを、若者と高齢者にやってもらったのだという:
これを見ると,ほとんどやっぱり高齢者のほうが悪いわけです。ただし,これは記憶テストですよと言われているからです。つまり高齢者の多くの方は,記憶テスト,あかん,思い出せへんと思っちゃうから。一方,そのときに記憶テストじゃなくて,これは豆知識を覚えているだけですからということを最初に言っておきます。豆知識を聞いてくださいと言っただけです。記憶しろと言っていません。そうすると,両者に差がなくなってきます。つまり,ほとんどの高齢者の方々は記憶テストと聞いただけでもう身構えたり,だめだということになってちゃんと覚えられない。
— 教育心理学者 高橋雅延
出典:日本教育心理学会 公開シンポジウム 加齢に伴い向上・維持する能力を発掘する
もはや明らかではないか。高齢者が学ばない原因は、記憶力の低下という身体的な問題だけではない。意欲の問題でもある。そして意欲の問題は社会的問題でもある。社会に蔓延した差別と抑圧が、高齢者から学ぶ意欲を奪っているのだ。
「年を取ると物覚えが悪くなる」
「年を取ったら学ばなくていい」
「年寄りは学ばない」
こういう社会通念は差別的な偏見だ。
このような認識を得たいま、改めて冒頭で紹介した言葉を振り返ってみよう。
「高齢者はIT社会で何一つ変わる必要はありません」
この言葉もまたエイジズムだと言わざるをえないのではないだろうか。一見やさしい言葉だが、高齢者の可能性を見限っている言葉であることに変わりはない。
このようなエイジズム批判は、いささか急進的(ラディカル)に感じられるかもしれない。まだ社会常識には程遠いからだ。しかし、セクハラを最初に批判し始めた人たちも当時は「急進的すぎる」と批判された。今日ではセクハラは社会悪になっている。
エイジズム批判も今日から始めなければならない。数十年後の常識にするために。自分自身がエイジズムのない社会を生きるために。
私たちの誰もが老いるのだから。
パーソナル・コンピューターという理念は、あらゆる年齢の子供たちの学習能力を前提にしている。だから「高齢者はIT社会で何一つ変わる必要はありません」というメッセージは間違っている。
こう言える社会にしよう。高齢者はIT社会で何一つ諦める必要はありません。コンピューターを使って楽しく学び続けてください、と。
そのためには、もちろんコンピューターの方も変わらなければならない。「高齢者向けコンピューター」ではなく「あらゆる年齢の子供たちのためのパーソナル・コンピューター」を目指して。
そして社会から「年寄りは学ばない」という思い込みを取り除かなければならない。高齢者自身の思い込みも含めて。
年をとっても死ぬまで学び続けられる社会にしよう。社会のエイジズムをなくしていこう。そのためにコンピューターにできることは少なくないはずだ。
この文章の最後に、エイジズムの問題を扱ったエンターテイメント作品、映画『マイ・インターン』を紹介したい:
舞台はニューヨーク。華やかなファッション業界に身を置き、プライベートも充実しているジュールス。そんな彼女の部下に会社の福祉事業として、シニア・インターンのベンが雇われる。最初は40歳も年上のベンに何かとイラつくジュールスだが、やがて彼の心のこもった仕事ぶりと的確な助言を頼りにするようになる。そんな時、ジュールスは仕事とプライベートの両方で思わぬ危機を迎え、大きな選択を迫られる──。
この作品に登場するベンは、妻に先立たれ、リタイアして暇を持て余している孤独な70歳の老人だ。しかし、彼は一念発起してインターネット企業でのインターンに挑戦し、充実した日々を取り戻していく。
ベンがそのような機会を得られたのは、その社会にシニア・インターン・プログラムという福祉事業があったからだ。高齢者が新しいことに挑戦するのを抑圧せず、むしろ奨励するような社会で、私は生きたい。2
それでは、みなさん、ハッピー・エイジング!
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iPadはダイナブックとは呼べない代物だとして批判する人もいる。特にiPad上でプログラミングできない点が批判の対象だ。アラン・ケイにとってパーソナル・コンピューターのユーザーとは、与えられたソフトウェアを利用するだけの受動的ユーザーではない。自らソフトウェアを書き換え、それによって問題への理解を深めていく能動的なユーザーだ。ケイにとってプログラミングはオタクや専門家が独占すべき技術ではない。あらゆる年齢の子供たちが学びの自由を手にするための技術だ。プログラミングはケイのパーソナル・コンピューター構想の中核を占めている。 ↩
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「『マイ・インターン』のようなシニア・インターンシップは実在するのか?」 (ScreenPrism)という英文記事では、その実例が紹介されている。 ↩