クラウス・クリッペンドルフ (Klaus Krippendorff) の『意味論的転回−デザインの新しい基礎理論』 (The Semantic Turn – A New Foundation For Design) という本をご存知でしょうか。
『意味論的転回』は、「デザインとは、そもそも何なのか?」という根源的な問いに答える哲学書です。そして実践的手法を紹介する本でもあります。デザインの思想と実践が、一冊のなかでつながっています。
〔この文章は、デザインとユーザー・エクスペリエンスについて考える人に『意味論的転回−デザインの新しい基礎理論』を読んでもらうために書かれています。また、UX Advent Calendar 2013 のために書かれました〕
序論と概観
この本の目的は次のように述べられています:
本書は、専門的な実践としてのデザインと、人間に一般的に備わっている活動としてのデザインを概念化する新しい方法を紹介するものである。
そして、「デザイン」を次のように定義しています:
デザインとは物の意味を与えることである。
人は、物の物理的な質ではなく、 人に対するその物の意味に基づいて、理解や行動をする。
このような「デザインの再定義」を「意味論的転回」と呼んでいます。ようするに「デザイン」を「意味論的」に再定義したわけです。「デザインは、人工物の意味の問題だ」というわけです。
ここまで引用した文章からお分かりかと思いますが、デザインとはデザイナーだけのものではなく、万人の日常的な実践である、という立場です。部屋のインテリアを考えるのも、旅のプランを考えるのも、今日の仕事の段取りをするのも、すべてデザインであると。
この本が書かれた文脈としては、時代の大きな変化があります。工業化時代からポスト工業化時代へのシフトです。そして、工業化時代のデザイナーのあり方を徹底的に批判しています。ポスト工業化時代において、デザイナーは変わらなければ生き残れない、というメッセージが込められています。
意味が分かるように人工物をデザインすること、物としての意味と社会的意義を持つようにデザインすることは、実際、由来であるラテン語 「design」の失われた意味に立ち戻るのだが、デザインの実践に過激なシフトを必要とする。 それは、意味の考察への転回、つまり「意味論的転回(セマンティックターン)」である。それは確実にデザインを再活性化し、ポスト工業化の社会において重要な位置づけを与える。
ディスコースと自己批判と自己正当化
「ディスコース」も本書のキーワードです。ふつうは「言説」などと訳される言葉です。コミュニティで共有された「語り方」「語る内容」などの意味です。参考までに言及部を引用しておきます:
おおむねディスコースとは組織化された話し方、書き方、しかるべき行動の仕方である。
ディスコースは人々のコミュニティーに帰属する。その人々は、自分たちのコミュニティーを構成しているものを実行すること、いわばそれを執り行うこと、それによってメンバーとして重要なあらゆることを創り上げることにおいて協力する。ディスコースはコミュニティーのメンバーの注意を方向づけ、メンバーの行動を組織づけ、メンバーが見たり、話したり、書いたりする世界を構成する。
意味論的転回は、デザインがデザイン自身のディスコースによって自らをリデザインするための種子である。
ディスコースは部外者に対し、自らのアイデンティティーを正当化する。
このようにクリッペンドルフはディスコースにこだわります。そもそもクリッペンドルフが『意味論的転回』を書いたこと自体、ディスコースの実践です。
例えば私が「なぜ社会には情報アーキテクトが必要なのか?」と人々に訴えかけるのも、ディスコースを重んじているからです。ディスコースを通じて、アーキテクトのアイデンティティを正当化する営みです。
「自己正当化」は単なる自己満足とは異なります。ある職業が社会の役に立つためには、まず仕事をもらうところから始めなければなりません。そのためには自身の職業の有用性を他者に理解してもらう必要があります。これがすなわち職業の自己正当化です。
この感覚は理解し難いかもしれません。当たり前のように「デザイナー」という職業があり、その職業訓練をする学校があるわれわれ現代人には。しかし、クリッペンドルフが学び、キャリアを作っていった時代は、まさに近代社会が「デザイナー」という職業を受け入れていった時代でした。そこでは「デザイナー」という職業は決して自明ではなかったのです。
職業は、社会にその有用性を訴えかけること(自己正当化)によって「つくるもの」である、という感覚。
デザイナーが自身の価値を人々に訴えかけなければ、「万人がデザイナー」であるポスト工業化の時代に、デザイナーの価値は失われていくばかりでしょう。それどころか、大量消費・大量廃棄を続けたり、資本の論理に奉仕し続けたりするだけの「反社会的な存在だ」と非難される日が来るかもわかりません。
デザイナー(のコミュニティ)から社会に対する説明責任として、ディスコースを通じた自己正当化が重要なのです。そのためには、逆説的ですが、常に自己批判し続けることが必要です。自己批判によって自己正当化ロジックを鍛え続ける必要があるのです。
『意味論的転回』の構成
さて、この本の内容を目次に沿って見ていきましょう:
- 歴史と目的 (History and aim)
- 人間中心のデザインの基本概念 (Basic concepts of human-centered design)
- 人工物が使用される際に持つ意味 (Meaning of artifacts in use)
- 言語における人工物の意味 (Meaning of artifacts in language)
- 人工物の生における意味 (Meaning in the lives of artifacts)
- 人工物のエコロジーにおける意味 (Meaning in an ecology of artifacts)
- デザインのための手法、研究、科学 (Design methods, research, and a science for design)
- 距離性 (Distantiations)
- ウルム造形大学のルーツ (Roots in the Ulm School of Design?)
第1章は歴史観。デザインの対象がどのように変わってきたか:
また、デザインの環境はどのように変わってきたか:
第2章は人間中心デザインの原理。キーワードは「感覚」「意味」「コンテクスト」「二次的理解」です。二次的理解 (second-order understanding) という概念は、人間中心デザインの本質を簡潔に説明しており、極めて重要です。デザインが二次的理解に基礎づけられるべきであることから、デザインにおけるエスノグラフィー的なリサーチの重要性もまた自明となります:
私たちは、あることについての誰か他の人の理解を理解することは、そのあること自体を理解することとは質的に異なる、ということを認識しなければならない。誰か他の人の理解を理解することは、理解の理解である、再帰的に他の人の理解を自分の理解に埋め込む理解である。たとえ、これらの理解が一致せず、お互いに相反し、あるいは、誰かに間違っているとか、あきれるほど非倫理的だとか思われるようなときであっても。この理解の再帰的な理解は、二次的理解である。人間中心のデザインは、基本的には、他の人のためのデザインであるため、それは、二次的理解に基礎づけられるべきである。
第3章から第6章にかけて「使用」「言語」「生(ライフサイクル)」「エコロジー」における人工物の意味を論じています。以下の図で示されています:
とくに第3章はデザイン実践家にとっても示唆的な内容なので一読をおすすめします。「3.4.3 アフォーダンス」の項は勉強になりました:
ギブソンの研究が教えてくれることは、人間は物体を知覚するのではなく、ユーザビリティーを知覚するということである。例えば、椅子に座れること、箱を運べること、階段を登れること、ある物体を移動できること、ドアが開けられること、食品が食べられるものであること、ナイフでけがをする可能性、さらに、数学の方程式を解くことができるこ と。ギブソンが指摘しているように、知覚は人体の構成と大いに関係がある。例えば、一辺が5インチ(約12.7センチ)の立方体と言うとき、これはある物体の形を幾何学的に記述したものだが、片手でつかむことができる。だが、一辺が10インチの立方体は片手でつかめない。ある物体がつかめるものであるためには、向かい合う二つの面が手のひらを広げた幅より小さい距離になければならないが、この距離は二本の指でつまめる幅より小さくてはならない。言い換えれば、人間の知覚は本質的に、人間が自分の身体をどう動かせるかということに結び付いているのである。
第7章「デザインのための手法、研究、科学」は具体的な手法の話で、読みやすいです。最初はここから読むのがおすすめ。
第8章「距離性」 (Distantiations) で述べられることは、「デザインは何でないのか」です。否定形でデザインを語っています。デザイン独自の領域(領土)を高らかに宣言するかのようです。まさしくデザインの「自己正当化」としてのディスコースです。
クリッペンドルフによれば、デザインの意味論的転回および人間中心デザインは、何でないのか:
- 記号論 (Semiotics) ではない。
- 認知主義 (Cognitivism) ではない。
- エルゴノミクス (Ergonomics) ではない。
- 美学 (Aesthetics) ではない。
- 機能主義 (Functionalism) ではない。
- マーケティング (Marketing) ではない。
- テクスト主義 (Textualism) ではない。
第9章はクリッペンドルフ自身のルーツ。バウハウス直系のデザイン教育機関であるウルム造形大学で、クリッペンドルフが学んだことが綴られています。
『意味論的転回』を読もうとする人へ
この本を最初のページから順に完璧に理解していこうとすると、20ページ以内で挫折するでしょう。
この本には哲学用語など、難しい言葉がたくさん出てきます。でも、あまり気にせず読み進めていくのがよいと思います。「雰囲気読み」で。
そもそも文章というのはそういうものです。「一語一句完全に理解する」というのは、そもそも幻想です。『意味論的転回』の読み方は『読んでいない本について堂々と語る方法』が教えてくれるでしょう。
こういう本を読むときのコツですが、「分からない言葉をそのまま放置しながら読み進めるスキル」が必要です。「分からない」という気持ち悪さへの鈍感力。
『意味論的転回』は「デザインの新しい基礎理論」としての体系になっています。全部がつながっている。個々の要素が合理的に配置されて、全体を形作っているのです。それゆえ、どこから読み始めても構いません。あなたの関心に従って頁をめくっていけばいい。もし興味が続けば理論の全体像を理解するに至るでしょう。しかし、いつ読むのをやめても、読んだことが無駄になるわけではありません。いつ中断してもよいので、気軽に読み始めてみてはいかがでしょうか。
とりあえずは第7章「デザインのための手法、研究、科学」がおすすめ。具体的な手法の話になってますから、いちばん読みやすいかと思います。
ちなみに、私は日本語訳を読んで、文意が取れずに戸惑ったことが何度もありました。英語の原著で読み直したところ、日本語訳より理解しやすいと感じた部分が多々ありました。できれば両方入手することをお勧めします。英語の勉強にもなりますし、著者の原文を読むのも、いいものです。
追記:英語のWikipediaのページによくまとまっているようです。
追記(2014-07-16):気軽に質問や議論をするための学び合いの場として、クリッペンドルフの『意味論的転回』Facebookグループを作りました。